「いきなりですか」ルカ1:5-24

 私たちはことが突然起こってことが変わると思っていません。私たちがしたようにことが動き、しなければことは動かず、自分の頭でコントロールできる範囲で物事は起こると考えています。ゼカリヤ夫婦には子どもがなく、すでに年を取っていました。そこに至るまでの悩みというのはどんなに大きなものであったのでしょう。それでも彼らはどこかであきらめたか、受け入れたか。折り合いを付けてきたことでしょう。
 そこにいきなり、神様が使いを遣わしてことを告げます。ザカリヤにとって祭司の務めというのは日常の務めでした。ゼカリヤは取り乱し、恐怖に襲われました。そこで子どもが生まれることを告げられるのです。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」と言います。モーセもギデオンも、旧約の人物たちもしるしを見せられます。ザカリヤには口がきけなくなるということでした。
 そして、神のことばの通り彼らは子を宿します。ヨハネが生まれるまでの間、ザカリヤは口がきけないで、反芻して御使いが告げたことばの意味を考え続けたことでしょう。それは自分たちの夫婦の慰め喜び以上に、もっと大きな神のご用のために用いられていく器が生まれてくるということです。
 この夫婦が経験したことというのは、あきらめ、自分たちの常識でしか考えられないことを神はなさるということです。エリサベツはお腹の中で、ザカリヤは口がきけないという中で、それを知らされていくのです。人の目には考えられないことでも、神はもっとよきことをしてくださる力をお持ちなのです。もうだめ。もういまさらなどということは一つもない。主によって語られたことが実現することを信じ切った人はなんと幸いなことか。その期待と信仰をもって歩もうではありませんか。