「いのちのパン」ヨハネ6:23-40

 人はカツカツの生活をしていると心が卑屈になります。一方で、豊かになると知らず知らず人を見下す高ぶった態度になる。それらはみな、生きること、パンと深く結びついています。実に私たち人間というものにとっては、たかがパン、されどパン。欲深な心が現れるところなのです。

 この箇所は5,000人を5つのパンと2匹の魚で養った給食の奇蹟と呼ばれる出来事の後の記事です。人々はイエスを王に祭り上げようとします。人はパンが欲しいのです。それは食べるパンに限りません。学業優等、品行方正、美目秀麗、身体強健、家内安全、商売繁盛、無病息災。そして、それらがあれば生きていけるように求めるのです。

 イエスはここで宣言します。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」それは、十字架のイエスを信じ、よみがえりのイエスを信じるということです。私たちが口にするもの、それは、必ず自分の目で確かめます。同じように、信じるに値するのか、しないのか。どうにも、確かめられない!という思いでいたのはトマスです。そのトマスにイエスは現れてくださいました。そして、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)と言われました。

 いのちのパンであるイエス様を食べるということは、日々、イエス様の十字架の血潮とよみがえりの希望とを告白し、それを力として生きることです。自分も愛に生きることです。そうするならば、決して飢えることがなく、決して渇くことはないのです。