「いのちの喜びをともに」ヨハネ13:1-15, 34

 私たちはどのようにして老いを諦めるのではなく、受け止めることができるののでしょう。その鍵を洗足の記事から学びましょう。この洗足と呼ばれる出来事は最後の晩餐の時です。彼らの習慣では一番しんがりの者が足を洗い、食卓に着きました。ところが、その夕食の間にイエスはわざわざ、弟子たちの足を洗ったのです。それは、愛を残ることなく示され、愛を教えるしるしでした。

 イエスは弟子たちの足を順に洗い、ペテロのところに来ると彼は拒みます。「決して洗わないでください」と。私たちは「自分でできる。まだできる」という思いをなかなか捨てることができません。とりわけ男の価値観「かっこいい」と「もてたい」はこれを拒絶します。こんなこともできないということを認められないのです。そんなペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と主は言われます。そう、人はイエスに洗っていただかなければ救われないのです。委ねることが大切です。

 ペテロは次に、それでは「手も頭も」と言い出します。この洗足の意味は後でわかるようになるとイエスは言います。そうです、これはイエスの十字架の贖いを指すのです。それは信じるだけですべてが赦され、救われます。ところが、人は過去を振り返り、むなしい後悔を繰り返し、人生に諦めて老年を迎えるのです。一方、イエスの十字架はすべてからあなたを救うのです。

 最後にイエスは「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と新しい戒めを与えます。何ができなくても「ありがとう、ごめんなさい、ゆるします」と伝えることができたなら、老いも弱さもすべてを受け入れ、喜んで人生を全うすることができるのではないでしょうか。あなたはどうですか。

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