「うわべでなく、心の中こそ」マルコ12:28-44

 「マクドナルド化」と呼ばれる現象があります。徹底してマニュアル化した中を生きることを言います。そうすると、考える必要がなくなり、言われたままをすればいいのである意味楽です。またそれさえしていれば、自分の責任を果たしたつもりになり、「きちんとやっています。文句ありますか」と自らを正当化します。一方で、考えること、関わること、対話することを避けて偏狭な世界に埋没します。またそれが自分にではなく人に向かうとき、マニュアル通りでないことに対してクレーマーになります。

 律法学者たちの生き方もそのような生き方です。律法がもともと持っている精神は忘れられ、お役所仕事的になっていたのです。その中でそれに気づいた一人がイエスに尋ねるのです。「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか」と。

 イエスの答えは明解です。この箇所を知っておられる皆さんも「主を愛し、隣人を愛することです」とお答えになるでしょう。もちろんそうです。しかし、よく読んでみると、その前に「われらの神である主は、唯一」ですとあります。実はこれこそがこの問答の核心です。日本語でもそうですが「主」とは持ち主を指します。いのちも時間もからだも、すべては主のものだ。これさえはっきりすれば、あとは議論の余地もありません。「主を愛し、隣人を愛せ」これがすべてです。

 さて、あり余る中から義務を果たす人と精一杯すべてを献げた貧しいやもめの話がこの後に続きます。そう!うわべではなく心なのです。すべてを献げるには、すべてを主が与えてくださるという信仰抜きにできません。まさに「われらの神である主」を信じる心の中の信仰こそが最も大切なのです。そのときに、核心をつかんだ人生を歩めるのです。

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