「くしき恵みー信仰の土台」ルカ15:11-29、尾崎一夫師

 恵みというのは聖書の中心、信仰の土台です。きれいなことばですが、私たちの人生を左右する、非常のパワフルな言葉で、聖書には繰り返して使われています。恵みと言えばアメージング・グレース。作者のジョン・ニュートンは神の恵みに打たれたる経験を通して、生涯これを語り続けました。

 恵みのゆえに人がどんなに深い過去をもっていても、どんなに深い罪の底に沈んでいても、休むことなく、あきらめることなく、追い求めて、神が行動を起こして救ってくださるのです。一旦捉えたら離しません。

 似た言葉にあわれみということばがあります。どう違うのでしょう。あわれみは、当然受けるべき、処遇に対する特別な配慮です。恵みはもう一歩踏み込んで、愛に根ざした行動です。あわれみは地獄の扉を閉じ、恵みは天国への扉を押し開くのです。

 さて、放蕩息子の話です。まず父親は「遠くにいるのに」見つけました。帰ってくるのを待ちわびているのです。父親は次に「駆け寄り」ます。当時のこの地方の習慣では考えられません。父親はなりふりかまわず行動を起こします。それこそ恵みの行動ではないでしょうか。息子はただ、自分が悪かったとわびるのです。さらに、その息子を父親は抱きかかえるだけではなくて、着物を着させ、靴を履かせ、指輪をつけます。指輪は、家を代表して取引を行わせる権利、すべて与えることの象徴です。

 失ったものには必ず持ち主があります。私たちの持ち主は父なる神です。私たちは愛されている、神様にとってかけがえのない存在です。だからこそ、十字架を通して父なる神のところに戻る道までも用意して下さいました。私も、あなたも、神の恵みによって生きるのです。

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