「さばく人の心の狭さ」マタイ7:1-2

 主イエスは6章の終わり、この直前で、「神の国とその義を第一に求めなさい」という信仰者の目指すべきことについて明らかにした後、新しい区分を始めます。神を愛することと隣人を愛することは不可分です。その隣人を愛する第一は「さばいてはいけません」という半ば消極的な命令です。その求めとは何でしょうかか。

 まず第一に、それは何でも受け入れ、不正や罪を見過ごしにすることではありません。主はマタイ18章で、兄弟が罪を犯したなら、それを責め、悔い改めに導く権威を与えておられます。一方で、1コリント5章では罪をさばけない教会に対してそれをパウロが厳しく戒めています。

 何を問題にしているかと言うと、それは人を上から目線で見下す態度です。ルカ18章には、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対してのたとえ話がでてきます。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します…』それは自分中心な態度。ローマ14章にはその実践が語られています。それは、私たちにもよくありがちなこと。二人なら二つ、百人いれば百人の考え方があります。それを自分だけが正しいようにさばく心が隠れているのです。

 最後に、私たちは自らがあわれみによって許された罪人であって、さばきにはかならずあわれみと赦しが伴うことを忘れてははなりません。姦淫の現場を捕らえられた女、「罪のない者が最初に石を投げなさい」と問われたとき、誰も石を投げることが出来ませんでした。主はそこに私も罪に定めないと赦しを与えられました。私たちも同じ赦しとあわれみの心をいただこうではありませんか。