「しなければならないこと、どうでもいいこと」使徒21:1-26

 パウロは第三次伝道旅行の最後にエルサレムへ向かいます。ツロでは兄弟たちが、カイザリヤでは預言者アガボが捕らえられる預言をしてエルサレム行きをやめるようにと忠告をしますが、パウロは死をも覚悟の上どうしても行かなければならないと言います。

 ローマ15章によると、マケドニヤとアカヤの教会がエルサレムの貧しい聖徒のために献金を献げ、それを届けるのがパウロの目的です。第二コリントの8章では「主は富んでおられたのに、貧しくなられた」と語ります。マケドニヤの教会は、困難な中にあっても、「聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたい」と願いました。ならば、たとえ苦しみ悩みを受けることがあったとしても、他の誰かではない、私がその恵みを届けたい。そう願ったのです。

 そこで向かったエルサレム。兄弟たちは喜んでパウロを迎え、異邦人の間でなさったこと、交わりの恵みの献金を届け、喜びを分かち合ったのです。一方で、ユダヤ人と異邦人との間には大きな壁がありました。ユダヤ人の慣習、しかもそれは信仰生活と結びついていることがあったのです。エルサレム教会会議で決めた「偶像の神に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきである」はもちろんのことですが、パウロは誤解される恐れがあったのです。

 パウロにとってそれは「どうでもいいこと」でした。ですから、長老たちの提案通りに誓願を立てている者とともに清めの期間を過ごすのです。救いや信仰に直接関係ないことならば、こだわりなく「ユダヤ人にはユダヤ人のように」合わせたのです。あなたはどうでしょう。主にあって、決意をもってすべきことがないでしょうか。どうでもよいことにこだわってはいないでしょうか。

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