「すべてをキリストの名において」コロサイ3:15-17

 神様が私たちのこの世界をお造りになったときの創造の姿は「すべてがよかった」。そして裸であっても恥ずかしくない一つ心でともに生きる平和がありました。ところが私たちの周りには最も親しいはずの夫婦から世界大に至るまで平和ならざるものが満ちています。「ありがとう」と感謝を言い表し、過ちを犯す私たちは「ごめんなさい」と詫び、「ゆるします」とキリストにあって赦す。それがキリストの平和が支配するところ、私たちが導かれていく新しい人の成熟です。新しい人を着ることから、「新しい人になること」です。
 「 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」それはイエス様が与えてくださった新しい戒め、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)を生きることです。どのようにしてなされるでしょうか。「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い」と言います。「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」という言葉がでてきます。これは礼拝です。ともに神の御前に立ち、賛美を献げながら赦せぬ思いや憎しみを持ち続けることはできません。
 続いて「すべてを主イエスの名において」と言います。例外なしです。「するかしないか」がすべての物事の判断の基準だと書きます。
 「祈るとき、君は神中心の人間になる」とは炎のランナー、エリック・リデルのことばです。何かとって着けたようにキリストを着て、都合が悪くなったら、脱ぎ捨てて内側が見えてしまうような人間ではない。キリストの平和が心を支配し、ことばが豊かに住むように、そして、ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。このような人に「なる」こと。それが問われています。あなたはそのような成熟をしてきましたか。あるいは求めていますか。