「すべてを洗う愛」ヨハネ13:1-15

 この箇所は「最後の晩餐」として知られている出来事です。イエスは過越の食事の途中、わざわざ、弟子たちの足を洗います。それはイエスが愛を表した象徴的な出来事です。

 ところが、ペテロは足を洗っていただくことを拒みます。「決して私の足をお洗いにならないでください」と。それは神の恵みへの拒絶です。最初の人アダムとエバの罪、それも恵みの拒絶でした。彼らへの誘惑は最終的に「神のようになる」こと。つまり、すべてを思い通りにするという誘惑でした。男の価値観はつまるところ、「かっこいい」と「もてたい」、つまりプライドと承認欲求です。思い通りになることを願う願いがあるのです。イエスに表せることは「かっこわるい」のです。自分でどうにかできると思う心です。恵みをいただき、足を洗っていただくためには、徹底して砕かれ、心貧しく、狭い門から入らなければならないのです。

 ペテロは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われるや、「手も頭も」と言い出します。足を洗うことは後でわかるようになると言われる、イエスの十字架の愛の象徴です。十字架ですべてが洗われる。十字架こそがすべて。他に何もいらないはずです。ところが、他に何ものかを求めることがないでしょうか。

 へりくだって足を洗ったイエスに倣うということは、十字架のイエスに従う一つの具体的現れです。互いに足を洗い合うこと、それは、罪も汚れも、傷も痛みも、悩みも苦しみも共に負い合って生きる交わりへの招きです。それは、「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるため」(15:11)とこの後に教えられたように、互いに神の喜びをともに生きることなのです。あなたもこの愛の喜びに招かれています。そして、それはイエスのもとに己を捨てて委ねることから始まるのです。