「みからだをわきまえて」1コリント11:17-34

 キリストのからだとして共に生きることを常に確認し、常に思い起こすために主は私たちに聖餐を定めてくださいました。
 聖餐、それはキリストのからだと血に「あずかる」ことです。「あずかる」とはコイノニアということばが使われています。それは交わりを意味することばです。コリントにおいても、私たちの周りでも、万事につけて人は個々人それぞれの御利益を願い祈ります。ところが聖餐はひとりではなく、キリストの恵みを分け合うのです。
 人の集まるところに食あり。飲み食いによって人間関係を円滑にしようと人はします。コリントを含めたギリシャ・ローマ時代、裕福な信者の家を祈りと礼拝の場所にしたようです。そこでの交わりの食事に「めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」というようなことが起こっていたのです。「さわの争いみ民を裂き、世人そしりて、悩むれども、神は絶えざる祈りを聞き、涙にかえて歌をたまわん。」讃美歌191のように、残念なことにその交わりが壊れるようなことが起こるのです。それは何かと言えば、人間の弱さや欠点のようなものによってではなく、福音からそれることによって起こるのです。そして、しばしばそれは非常に簡単に起こるのです。
 だからこそ、教会をつなぎ止めるのは聖餐です。聖餐は私たちが能動的に、主体的に、自主的に「受ける」のです。目をつぶったままで私たちはものを食べられません。必ず目で見て確認します。そして、飲み下すことは安心が必要です。聖餐の度、私たちは自分を吟味します。それなくして聖餐に与れません。そこに招かれているということは、十字架の赦しの恵みを受けよという厳粛な招きであり、それを共に受けることは、またその恵みに互いに生きますという信仰告白です。その度その度、それを新たに私たちは生きるのです。