「みことばを灯火として」2ペテロ1:19-21

 私たちの世界は暗やみに覆われています。争い合う世界は知恵を尽くします。しかし、すべてのこと、私たちの身の周りから世界大に至るまで、すべての暗やみの原因は人の罪であり、それを誘う暗やみの支配者であるサタンに覆われているのが私たちの世界です。

 やがてイエス様の再臨のとき、すべてが新しくされる日、それを待ち望みつつ、目の前を照らし出すともしびをいただいているのです。それは決して煌々と世界を照らし出すわけではありません。しかし、神に従って生きようとする者の足もとを照らし、一歩一歩進む力を備えて下さるのです。それが預言のことばであり、聖書のみことばです。

 ペテロはここに「私的解釈」をしてはならないといます。「自分勝手に解釈」とも訳されますが、元々は「それ自身」、英語で言えば、「one’s self」という意味を持ちます。それは特定のみことばの箇所をして、そこだけで解釈してはならないこと、聖書全体の光の中に照らして理解するべきことが肝要だということです。たとえば、神の愛、それは「七を七十倍するまで」、限りなく赦し、愛に富んでおられる。どんなことで赦されるなら、人が何をしようと、いいじゃないか。そこだけをもって解釈する。それは転じて私的解釈であり、自分勝手な解釈です。

 預言は聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語った。この動かされるとは、暴風に巻き込まれた舟がその風の吹くままに流されていくときに使われています。否応がなしに神に動かされる。例えばヨナ。拒んでも拒んでも神に動かされて預言を語りました。彼の目には無駄だと思えたことですが、神にとってはそうではありませんでした。だからこそ、このみことばのともしびをもって、歩みを進もうではありませんか。