「わかっているつもり」の話

 先日、話しをしていて説教のテーマがわからないという話を聞きました。ここのところ「信仰告白」について第一条から順にお話ししてきた「つもり」でした。毎回確認をして、今日はこのテーマだと話している「つもり」でした。ところが、話している本人はその「つもり」であっても十分に伝わっていないことに気付き、申し訳なく思っています。

 私たちが人と行き違うことの多くは、「つもり」のことが多いのではないでしょうか。私は言った「つもり」、伝えた「つもり」。当然わかってもらっている、理解してもらっている「つもり」です。ところが、実際には届いておらずに誤解を与えたり、話がかみ合わなかったりすることしばしです。

 また、「つもり」の中には、理解の差による混じり合わない平行線を辿ることがあります。前提として当然わかっている「つもり」で話したことでも、その前提が違うので、説明しても、繰り返してもかみ合わないことがあるのです。自分の理解のレベルで話してもついてこられなければ、難しい話にあくびがでるか、そもそも初めから聞く気持ちさえ起こらないものです。

 イエスは霊的な真理を話すために、しばしばたとえをお使いになりました。身近なことに置き換えなければ、弟子たちや群衆が霊的な真理を理解することが難しかったからです。イエスとともに過ごしている弟子たちにすらそうだったとしたら、私たちはなおさらでしょう。

 ことばの人になれるよう訓練を続けている「つもり」ですし、聖書の世界が身近なことに結びつくように努力している「つもり」ですが、不十分であることを覚えます。「つもり」積もれば山となる。そうなる前に、互いにわからないことはわからないと伝え合う交わりを主にあって築きましょう。