「わたしは誰かという問い」マルコ8:27-30

 7つのパンで4千人を養われた奇蹟の後、イエスは弟子たちに「まだ悟らないのか」と問いかけられました。そして、ここでは、「私は誰か」という問いかけをします。この2つの問いかけが、この福音書の中心的な大切なことを言い表しています。そこに、ペテロは、「あなたはキリストです」と告白しました。それは、イエスは誰かという証言です。
 イエスは、その告白を前に人々がどのように言っているのかをお尋ねになりました。人々はバプテスマのヨハネ、エリヤ、あるいは他の預言者の一人だと言っていました。つい先頃までこの地で力ある働きをしたヨハネ、あるいは旧約聖書の最も偉大な預言者です。。その後で、「あなたがたは」と問いかけます。信仰、それは誰彼がこうではなく、「私、私たち」という一人称に立たなければなりません。
 このキリストとはメシヤ=救い主を意味する「油注がれた者」という意味です。王、祭司、預言者に使われました。旧約の最も偉大な王ダビデ、彼のようなメシヤが表れることが人々の期待であり、弟子たちの期待でした。それは、イスラエルを再興してくだるダビデの再来。再びこの国に自由と繁栄を取り戻してくださるという待望でした。
 一方、この後、イエスは十字架の道を進んで行かれます。それをこの後、イエスは弟子たちに教えていきます。それこそ「キリストの使命」です。ペテロの信仰告白、その理解はズレているのです。それでは、ここでのこの告白は無意味だったでしょうか。その内容の理解はズレていたにせよ、「神から遣わされた救い主」であることには変わりありません。何が違っていたかというと、十字架の贖いという世に1回限りの唯一無比のユニークな神のみわざは人の理解を超えていたということです。その告白が内実伴ったものに深められていくことが大切であり、神がそのように告白する者を導いてくださるのです。