「イエスの愛の極み」ヨハネ13:1-20

 イエスが、弟子たちを最後まで愛されました。その愛を示すため、イエスは、弟子たちの足を洗われました。
 4節の「上着を脱」ぐという言葉は、ギリシャ語「ティセーミ」です。ヨハネの福音書10章に、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とありますが、この「捨てます」も同じ「ティセーミ」という言葉です。上着を脱ぐという行為、弟子の足を洗うこと、それは、いのちを捨てることと同じであり、この洗足に十字架のキリストを見ることができるのです。私たちもまた、主イエスに愛され、足を洗われた一人一人と言えます。それは、私たちが、主の十字架によって、罪赦され、きよめられたからです。
 イエスはこの洗足を模範とするように命じられました。洗足は、「あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15章12節)に通じます。「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」(17節)分かるだけで終わらず、行うことを主は望んでおられます。十字架を背負わされたイエスの足は、ゴルゴタへと歩かされ、土埃で汚れます。更に、釘で打たれ、血が流れ、十字架に磔にされます。主は、その十字架で私たちの足を洗い、罪を赦し、きよめてくださったのです。このように模範を示され、「あなたがたも」と語られる主に、誠実に応える者が、幸いなのです。
 20節「わたしが遣わす者」とあるように、後に、弟子たちは、主に洗っていただいた足で、福音宣証に遣わされます。同じように、主は、私たちを各々の働き場、学び場へ遣わしてくださいます。私たちの弱い足は、そこで汚れ、疲れ、傷つきます。しかし、私たちは、主のもとに帰ることができます。そこで、主は、仕える者の姿をとってくださり、私たちの足を洗い、きよめ、癒してくださいます。そうして、私たちはまた、遣わされて行くのです。