「キリストのからだの器官として」Ⅰコリント12:18-27(伊東神学生)

 パウロは、教会を「キリストのからだ」(27節)、キリストにつながる私たちをその器官と表現しています。一人ひとりは、一つのキリストのからだの各器官なのだとパウロは強調しているのです。そして、教会とは、みなの益のために(7節)、同一の御霊により(11節)、みこころに従い(18節)、多くの器官からかたちづくられる共同体であると教えています(12節)。
 また、神は比較的に弱い、尊くないとみなす器官を劣っているとはせずに、むしろ尊んで、体を調和させてくださっていると言っています(22,23,24節)。
 私たちは、周りの人と自分を比べ、羨んだり、劣等感を持ったり、逆に優越感が生じるという弱さを持っていないでしょうか。しかし、教会においては、この世的な競争意識から解放される必要があります。教会のかしらはキリスト。そして、神の栄光が表わされるところ、それが教会だからです。神様は各々に必要な役割を与えられ、それぞれを尊く用いてキリストの体である教会を築こうとされています。一人ひとりの働きの調和がキリストの栄光を現わしていきます。
 主が私たちに求めておられることは、互いの優劣の比較、分裂、衝突ではなく、各部分が共に、喜び合い、支え合い、励まし合い、労わり合い、祈り合うことなのです(26節)。
 主は、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」とのみことばに生きることを願っておられます。命を犠牲にしてまで教会を愛されたキリストは、私たち(器官)に何を求めておられるでしょうか。身近なところから一つの小さな働きを始めてみましょう。
録音データを聞く