「キリストの血によって」1ペテロ1:17-19

 この節は「また」で始まります。それは先の勧めが神に対してのわきまえであるとすると、もう一つ、私たちはどうしても、周りとの関係、人との比較の中でものを考えるからです。私たちの歩みのもう一つの側面と現実を教えます。

 人類最初の殺人はカインとアベル。その思いはねたみです。初代教会最初の問題は食べ物のこと。そこに不公平が起こりました。放蕩息子のたとえ話、兄息子は弟が赦され迎えられ、宴会までしていることにがまんがなりません。私たちの逃れ得ない問題、人と比較して、公平だ不公平だと言い、不平や不満、納得できない苦々しい思いをどのようにして乗り越えるののでしょうか。

 ここでペテロが目を留めるように勧めるのは「人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら」です。そう、父なる神はちゃんと覚えていて下さる。そして、公平なさばきをなさる。だから、恐れかしこんで過ごすようにと勧めるのです。

 ペテロはもう一つ、キリストの血によって贖われた者であることに目を留めるように勧めます。贖いとは買い戻し。罪と死の奴隷から代価を払って買い戻されたのです。詩篇49:7,8には「たましいの贖いしろは、高価であり…」とあります。自らは払えないのです。代価はキリストの血、いのちをもって買い戻された。その動機は愛ゆえ。進んで自らを捨てて十字架を忍んで下さった。それが唯一の救われるべき道だと信じる信仰。そのようにして贖われた者であることを知れ。

 その時に、私たちは比較の海で溺れることなく救われ、堅く立って歩むことができるのです。どうか、そのようにしてこの地上の歩みを希望をもって歩ませていただこうではありませんか。