「ゲッセマネの祈り」マタイ26:36-46

 受難週、その出来事を思い返してみましょう。ユダの裏切りからゲッセマネの祈り、逮捕やいなや弟子たちは散り散りになります。大祭司カヤパの元で深夜の裁判。夜が明けると総督ピラトにもとに引き出され、罪を認めないと判決をくだされながらも、最終的には「バラバを!」という群衆の声に十字架へと定められます。ゴルゴダの道を上り、十字架上で苦しみを全うなさった。なぜ、それほどまでにあえて苦しみを忍ばれたのでしょう。

 主イエスの苦しみの極みは、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びであろうと思います。それは永遠から永遠に三位一体であったその交わりから引き裂かれる痛みでした。人間ですら、結び合されたものが引き離されるならば、ボンドで貼り付けられたものを引き剥がしたときのように傷が残るのですから、どれほどの苦しみであったでしょうか。それを受けるか受けないか、祈りの格闘がゲッセマネです。

 イエスの第一の誘惑は荒野の誘惑でした。石をパンに、身を投げても支えられ、すべてを手に入れる。すべてが自分の思い通りに。最後の闘いもまた同じです。本当に自分を捨てることができますかという誘惑です。主イエスは「私の願うようにではなく、あなたのみこころのままに」明け渡します。「悲しみもだえ」、「悲しみのあまり死ぬほど」の闘いでした。

 主は祈りに勝利し、「さあ」と自らを明け渡します。1ペテロ2章には「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」とあります。それが命を捨てる神の愛です。罪人である私たちに、赦しの救いを与える唯一の方法だったのです。主が自らを捨ててくださったその愛の大きさをかみしめ、その足跡に従う思いを新たにしましょう。

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