「一番偉いのは誰か」マルコ9:30-37

 イエスの一行はピリポ・カイザリヤの地方から、ガリラヤを通ります。これからエルサレム、十字架への道を進んでいきます。イエスが自分を捨てようとするその中で弟子たちは、だれが一番偉いかを論じあっていたのです。
 人はみな一番になりたがります。それは罪の結果です。神が造られた本来の人は、神を喜び、隣人を喜ぶ「他者中心」です。ところが、罪はいつも「自分中心」です。別の言葉で言えば、「思い通り」です。それは私たちの生きる小さな場でもいつも働いている原理です。結果、人は競争社会に置かれ、絶えず比較の中に生きなければなりません。そこには優越感と劣等感、常に他者の目を気にしながら生きるジレンマを抱えるのです。何と不自由なことでしょうか。
 一方でここにイエスが教えてくださったのは、そのような罪の世にあって、全く新しい原理です。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」この言葉の通りに生きるなら、仕える者になるなら、そこには先頭に立ちたいなどという思いは消え去ります。そのような思いを吹き飛ばして徹底して仕えることこそ、私の弟子のあり方だと教えられたのです。それは、これからイエスご自身が十字架で示そうとなさる道に他なりません。
 さらにイエスは「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば…」と言われます。幼子は受けるだけで、お返しをすることができません。私たちにはいやしい下心があって、見返りを求めます。しかし、何も返すことのできない者に仕え、与えることこそが、イエスに従う道なのです。マタイでは「最も小さい者のひとりにしたのは私にしたのだ」(25:31~)とイエスは教えられました。仕える生き方、それは比較や競争から自由にされ、与える喜びに生きるイエスの下さる新しい道なのです。