「不幸を嘆かない秘訣」創世記39章

 エジプトに連れて行かれたヨセフはファラオの廷臣で侍従長のポティファルに買い取られます。彼の歩みのキーワードは、「主がヨセフとともにおられたので」(2)ということばです。後に監獄に入れられたところでも同じように書かれています。それはヨセフがともにいてくださる神に望みをおいて仕える生き方をしたからです。
 「…ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。…」(エペソ6:5-8)これは、十字架でいのちを捨ててくださったキリストに仕えるようにということであり、その模範に従うことです。どんな人との関係においても、キリストのように、自分を捨て、いのちさえ捨てて徹底して愛をもって仕えるのです。十字架のイエス様を知らないヨセフでしたが、そのように仕えることが祝福の基であり、その祝福は主人の家の祝福と証されるようになります。
 ところが、そのような生き方をしていてもつまづくことがあるのです。主人の妻が彼に言い寄るのです。彼は己の身を聖く保ちますが、ある日彼は嵌められます。無実の濡れ衣を着せられ監獄に送られます。しかし、彼はここでも腐ることなく、一生懸命仕え、そして、信頼を勝ち取っていくのです。
 ヨセフの心はいつも穏やかであったでしょうか。そうとばかりではなかったことでしょう。何が彼を支えたのか。代々の信仰者たちは神への祈り、神への賛美を力としました。詩篇46篇はその一つです。「神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け…」誰が知らなくても、認めてくれなくても、聞いてくれなくても、神はすべてを見ていてくださり、ときに導いてくださる。それを信じる信仰こそが不幸を嘆かない秘訣。そこに神が祝福をくださるのです。