「世の光として輝く」ピリピ2:13-16

 志という言葉を使うとき、それは「こう生きたい!ありたい!これを目指す!」という何かしらの意思を伴います。ここにある志は「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」とあるように、私たちの願いや希望ではなく、神が与えてくださるものです。

 1:27には「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」という手紙全体のテーマがあり、その試すべきテストが2:1の「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」というう4つです。必然、2節の「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」という「愛と一致」に導かれる。それが、私たちが持つべき志です。

 それを妨げるもの、不平と疑いです。カインの「不公平だ。評価されていない。面白くない」というものから始まって、初代教会の最初のトラブルも食べ物のこと。実に日常の小さなことの中に、不平やつぶやきが起こってくるのです。しかもそれは近ければ近い人ほど、夫婦や家族、あるいは教会の中で不平や疑いは起こりやすいのです。そこには、甘えという原理が働き、「しょせん、だから、やっぱり」などと言うのです。なんと、罪深い私たちでしょうか。

 それを乗り越えるのは、キリストです。不平や疑いの罪の世から贖い出す力はキリストの十字架のみ。それに従いゆく道しかないのです。他にはありません。ここから離れるなら、すぐさま逆戻りしてしまうのが私たちです。しかし、キリストの十字架のお姿にお従いして、この志をしっかりと保つこと、それがいのちのことばを握りしめることです。それがゆえに不平を言わず、神の導きを疑わずに生きるなら、そこに生み出される神の愛の交わりが「世の光」として輝くのです。