「八方塞がりに見えても」使徒8:1-13

 ステパノの殉教から激しい迫害がエルサレムの教会を席巻し、使徒たち以外の者たちは街を追われます。いわば迫害難民です。住むところを追われ、仕事をなくし、生活の基盤を失い、今後の先行きも見えないような中、明日の食べ物、生きることを問われるような中に投げ出されたのです。ところが、彼らは巡り歩く先々でみことばを語り、証しを続けるのです。
 彼らがそんな危機的な状況にありながらも証し続けたのは神の国とイエス・キリストの御名です。神の国とは、神が主権をもってご支配くださることを信じる者にとっては、どこも神の国となり、すべてのことを導いてくださるという信仰です。難民の彼らがそれを堅く信じていることに周りの者たちはむしろ真実を見たのです。津波・原発によって散らされた民によって同じことが導かれることは祈りです。
 また、イエス・キリストの御名とは、十字架と復活による罪の赦しです。人にとって最も大きな問題は、この罪の赦しです。赦しから始まる真の和解と平和です。身代わりの十字架を通して神が人を愛し、いのちを捨てるほどに愛しておられることを彼らは語ったのです。
 外から見れば、彼らは八方塞がりの難民でしょう。しかしそれが今までの殻を破って交わりのなかったサマリヤ人にもこの信仰を証しするように、いやむしろしなければならなく導かれたのです。そうでなければその殻は決して破ることはできなかったでしょう。私たちの考えることのできる範囲はごくわずかです。一方で、主はご自身のわざを小さな私たちを通して行われるのです。どんな状況にあったとしても、むしろ神の導きがすべてを益とされることを祈りましょう。
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