「再臨のとき、心配無用」マルコ13:14-27

 「『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら」とイエス様は警告します。この言葉はダニエル書11章にも出てきます。紀元前167年、シリアの王がエルサレム神殿にゼウス像を建てた神殿冒涜事件がありました。このとき、ユダヤ人はマカベヤ革命を起こします。この後、70年にはエルサレム陥落とともに神殿は破壊し尽くされます。神殿が冒涜される出来事です。
 神殿、それは神ならざるものが立ってはならない場所です。イエス様は宮きよめ以来、神殿のあるべき姿について語ってきました。それは「祈りの家」、神との交わりの場を意味します。今、私たち自身が神の神殿です。そこに立ってはならないものが立つことがあります。1ペテロ5章には、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(5:8)とあるように、私たちの内なる神殿にも戦いがあるのです。
 エペソ書には「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。」(4:31)とあるように、内なる神殿に戦いが起こります。我慢して堪忍袋の緒が切れたというようなことが起こるより、「逃げろ」と言い、そして、その日数を短くして下さる。つまり、耐えられないことなどないのだと主は言われます。
 そして、やがてキリストの現れの日、主語自身が四方からその民を集めて下さるとのお約束があります。ならば、私たちがなすべきことはシンプルです。今、キリストにふさわしく、内なる神殿をきよめ、荒らす忌むべきものが立とうとしたそのとき、惑わされることなく、キリストの恵みに生きることです。その惑わしから逃げ、キリストの恵みに、生きることを祈り求める神殿としてともに進もうではありませんか。