「別れの時が来たなら」使徒20:32-38

 老いとは何か?「老いとは神様からいただいたものを一つずつお返しして、天に帰る備えをすること。」ある姉妹の定義です。一方で若い日には覆い隠していたことも、その力がなくなって露わにされるようなことは少なくありません。不平不満、そのような心と戦うには力がいるのです。また、まだ自分で握りしめていたいもの、それを手放すことは容易ならざることです。

 パウロにとってエペソの教会は特別な存在でした。なかなか行くことが叶わず、しかしその後3年の間、夜も昼も、涙と共に奉仕してきた教会です。その教会がこの後、外にも内にも大きな戦いをしなければならないことを知っていました。自分がいなければと後ろ髪引かれる思いがあるパウロですが、次のように言うのです。「あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」

 お家騒動が世間を巻き込むように、人はなかなか任せきれないのです。パウロが委ねるのは生ける神とそのみことばです。これより確かなものはありません。

 さらにパウロは自分の働き、この両手がしてきたことは、主イエスの「受けるよりも与える方が幸いである」と言われたことばを証しするものだと言います。もし、それが自分の手のわざだとそれを握りしめていたら、任せることなどできません。しかし、私がしたことすべては神のみことばそのものだと言うのです。詩篇90篇にも「どうか私たちの手のわざを確かなものにしてください」という祈りがあります。自分の両手をまじまじと見てください。この手は何をしてきただろうか。まだ握りしめているものはないだろうか。主よ。いただいた恵みとなしたすべてのわざとを感謝し、お返しします。それこそ私たちの平安の秘訣なのです。