「受くる幸い、与える幸い」創世記47:1-28

 エジプトでファラオの前に立つヤコブはファラオを祝福しました。飢饉による疎開です。世話にならざるを得ないみじめなことですが、ヤコブがファラオを祝福したのです。どういうことでしょうか。
 ヤコブにとって祝福、幸せというものは、自分で切り開くもの、人から奪い取ってでも益となるものをつかみ取ろうとするものでした。人は生まれ育ちを選べません。双子でありながら弟として生まれた彼は長子の権利を奪います。それが、打ち砕かれる神の訓練を受けます。ラバンの元に行く途上、神が現れて、「あなたをこの地に連れ戻し・・・あなたを決して捨てない」と約束をくださいました。しかし、うまくいったわけではありません。「私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり」というところをして、神の器へと造り変えられました。
 彼が学んだことは、自らの手で祝福を切り開くのではなく、神の祝福なくして、ことはなし得ないということです。そして、ヤボクの渡しで神の祝福を願って神と闘い、イスラエルという名をいただきます。それは「神のご支配」を意味する名です。イエス様が「神の国とその義をまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)と、主の祈りで、「御国が来ますように。みこころの天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6:10)と教えられたのは神の国のご支配に委ね生きるということです。
 神のご支配の中、自分は器に過ぎないことを理解するならば、様々な状況、ここではファラオの助けを受けることも感謝。そして、与えられている恵みと祝福を与えることも感謝。そして、ヤコブと再会を果たし、もう死んでもいいと言うヤコブ。墓をカナンにと願います。続く者がエジプトで埋もれてしまわないように。イスラエル=神ご支配したもう民であることを後の者たちに証しするための墓です。そのような恵みの器に私たちも倣うことを祈りましょう。