「善に熱心であれ」1ペテロ3:13-15

 悪か善か、キリスト者生活はいつも二者択一です。ここでは「もし、あなたがたが善に熱心であるなら」という言い方がなされていますが、それは意訳をするならば、「善に熱心であるあなたがた」という意味です。そこで問われるのは、この熱心に善に生きるということをしているかというチャレンジです。

 ところが、私たちは信仰生活の倦怠期とでもいう善を行う生活に疲れ、熱意や情熱を失うようなときがあるのです。そして、「どうせ、やっぱり、しょせん」などという思いが起こるのです。どのようにしてその熱心を保つべきなのでしょうか

 キリスト者の歩みはしばしば、キリストの花嫁、結婚になぞらえられます。大切なことを「あいうえお」で考えてみましょう。

 あきらめないこと。私たちは誓いをもって洗礼にあずかりました。そこに絶えず立ち返り、祈りを新たにすることです。

 いそがない、いばらない、いじけないこと。善を行っても、その心に仕えることよりも思い通りにことを運びたい思いが入ってきます。絶えず自らに向き合うことです。

 受け入れること。相手を変えることよりも、相手を受け入れ、自らを変えることを学ぶのです。

 選ばれたことを忘れない。神が私たちを選び、そして御前に生きることを導いてくださった。だから、自分にではなく、神に期待することです。

 「おっ」と驚く新鮮さを保つ。それは教会暦の様々な祝祭、その度、新たな励ましをいただいて思いを新たにすることです。

 そのように生きる時、たとえ迫害があろうとも、主をあがめ、希望をいただいている姿こそがキリストの証しなのです。倦まず、たゆまず善に生きようではありませんか。