「嘆きは慰めに」哀歌5章

 哀歌の背景、それは預言者エレミヤの時代、「エレミヤの哀歌」とも呼ばれ続編に近い嘆きの歌です。それは涙の預言者と呼ばれた彼の預言にもかかわらず、それに従わなかったユダが滅ぼされたからです。

 彼が委ねられた預言のことば、その中でも神のみ思いが最もよく表れているのは次のことばでしょう。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)そのことば、それは彼らの父祖、アブラハムから、私たちの時間のスケールをはるかに超えた時代の中で神が持ち続けておられる愛の誠実なのです。

 しかし、この哀歌の嘆き、それは神に見捨てられたかに思えるような出来事を綴って今の窮状を訴えます。その原因は罪のため。私たちは罪の縄目の中に生まれ、罪の縄目の中に生きています。それを負わなければならなのかと叫びたくなるようなことがあります。そして、ここで嘆きに嘆くのです。しかし、この哀歌は今を嘆くことだけで終わっていません。神に救いを求めて訴えます。「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。」(20-21)

 その祈りの答え、それがクリスマスです。

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:25)イエスは牧者。この方のもとに帰るとき、たとえ、外にどんな嵐が吹き荒れていようとも、たとえ、何が襲ってこようとも、牧者なるイエスがついていてくださる。それこそ、私たちに与えられた慰めなのです。