「壊れる」ということ

 先日、中央道笹子トンネルの天井板が崩落する大事故が起こりました。私のような元土木技術者は、道路のこととなるといつも気になります。説明を聞けば、その背後の技術的なことがわかるだけに、これはえらいことが起きたと思うのです。

 阪神大震災の時には経験深く、技術的に信頼を置いていた上司が、高速道路の倒れた橋を見て絶句しました。「俺たちの作ってきたモノは何だったんだ」と。今回起きた事故はそれに匹敵する大事件だと思います。いくつかのことを考えて見ましょう。

 第一に、人間は一度作ったモノは「完全」だと思ってしまいます。しかし、完全なものなどありはしません。工業製品は製造物責任法(PL法)で責任持てということになりました。何も知らない人間はそれで大けがや損害を被ることがあるからです。問題は隠れていても表向き上手く機能すれば気にも止めません。それを「安全神話」と言います。

 第二に、人間はモノが消耗すること、寿命があることを忘れてしまいます。壊れるということは、新品だったものが消耗して使えなくなるということです。だからこそ点検が必要です。それを怠り、大事故が起こってから後悔しても後の祭りです。

 第三に、技術は日進月歩です。40年前の服を着ている人もいなければ、機械もほとんど使われていないでしょう。ところが大きなものは簡単に作り直しができないので、そのままになっているのです。原発や土木構造物、そのときの最先端の技術であっても、そのすべてを見越すことができないもろさや欠けが、「初めて作った当時の最先端のモノ」に現れ始めているのでしょう。

 人は、技術は何でもできるとのおごりを捨て、謙虚に己の限界をわきまえ、過ちを認める歩みをしなければならないのです。