「尊い礎石キリスト」1ペテロ2:3-10

 「生ける石として霊の家に築かれる。」それはキリストの教会の一部として、一人一人がなくてはならない大切な存在だということです。ペテロは家と石というたとえを使いましたが、パウロは「からだと器官」というたとえを使って同じことをいい表します。そして、弱さもまた、いたわり合うため、喜びも悲しみもみなともに支え合うためだと教えました。世はそうではありません。しかし、ペテロは「互いに熱く愛し合いなさい」それは「みことばに教えられて」と勧めました。

 その礎石はキリスト。礎石と訳されていることばは隅石、かしら石、かなめ石とも訳されます。いずれもなくては建物が成り立たない重要な石です。世はこの石、キリストを捨てます。あるいは相手にしません。地上の家は何によって築くでしょうか。聖書の中で最も立派な家を建てたのはソロモンです。謙遜に始まったはずの彼でしたが、やがて富が彼を溺れさせます。富の廻るところ、人が集まります。国も会社も、地縁も血縁も、みな損得で結びついている。それはあえなく、あっという間に失われ、人は失望するのです。しかし、霊の家は決して揺らぐことはありません。もし、揺らいでいるとしたら、それはキリストが第一でなくなっているときです。それを肝に銘じなくてはなりません。

 その生ける石の役割は「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげ」ることです。祭司は神と人との間のとりなし手。人が関わり合える人の数には限りがあります。片手の分あったら十分、両手では溢れてしまします。しかし、それが重なり重なりあってこそ教会は築かれていくのです。キリストのため、兄弟姉妹のため、自分自身をささげる献身こそがそれぞれの役割なのです。