「己の分を生きる」創世記49章

 ヤコブの最期です。すでにヨセフの二人の息子マナセとエフライムを祝福したヤコブは12人の息子たちを呼び寄せて、一人一人にある者には祝福を、ある者には叱責をあるいは戒めを語ります。それは彼らのこれまで、それを踏まえてこれからを語ります。その中でも祝福を与えられたのはユダです。それは心変えられて、悔い改めの実とでも言うべき歩みをしたからでしょう。
 そして、それを語り終えると自身の墓について指示します。アブラハム、イサクが葬られた墓に葬るようにと。それは、神の約束の地を離れた子どもたち子孫たちが、エジプトに埋もれてしまわないためです。神の約束の民であることを忘れないようにと残していくべきもの、それを継がせるためです。
 同じヤコブから生まれた12人、みなそれぞれに違ったこれまでとこれからを歩みます。彼らに限らず、私たちは、生まれながらに持っているもの、受け継いだもの、新たに学んだこと、みな違います。それぞれに神が与えてくださった賜物があるということです。ちょうどイエス様がタラントのたとえをお話しになったのと同じです。それを喜び生きることが求められていることです。
 一方で、負の連鎖が子孫に及ぶことが預言されています。実に私たち人間の間には断ち切れない負の連鎖が流れています。そこからどのようにして救われるでしょうか。彼らは神の選びの器となるべきでした。しかし、その恵みの賜物を軽んじ、逸れていきました。そして、時至って神は新しい信仰による新しいイスラエルをキリストによって始めてくださったのです。それは生けるキリストの教会であり、私たちです。連鎖の縄目を断ち切って、新しく生まれる恵みに導いてくださったのです。新しい人、新しいいのちに導かれた私たち、神に与えられた己の分を喜び生きる新しい歩みをしようではありませんか。