「平和の器に」コロサイ3:1-16

 平和を願うところ、難しいことばは必要ありません。私たちが互いにあいさつを交わし合うことです。ヘブル語の挨拶はシャロームですが、その意味は多様です。平和、平安のみならず、繁栄、健康、充足、救い、勝利という神の祝福を祈ることばです。平和をつくる神の方法、それは私たちが砕かれ、恵みの器に、周りへ祝福を与える器となることです。小さな輪に過ぎません。しかし、それが重なり会うところに平和が拡がる。それが私たちに与えられた平和のつくり方です。

 一方で、平和を壊すもの、それは「地のからだの部分」です。人はみな裸で生まれてきます。ところが次第に多くを身にまとうようになります。最初の人アダムとエバ、彼らが手にしたのは思い通りにする我欲です。結果、イチジクの葉でお互いを隠すのです。一方で神が着せてくださったのは犠牲の上に成り立つ皮の衣です。古い人は継ぎを当てながら「どうせ、やっぱり、しょせん」などということばを繰り返します。しかし、主イエスにあって新しい人を着たのです。

 古い人は人を区別し、差別し、レッテルを貼って人をさばきます。しかし、パウロはここで、「ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はない」と教えます。それらが取り払われて、一つとされたのです。私たちの長い歴史の中でからだに染みついた差別意識、置かれた立場の違いなど様々な隔てを乗り越えることです。

 それを生きるのは、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配する」という生き方です。自らの古い人に居場所を与えてはなりません。自らを明け渡し、キリストに支配いただく者が小さな平和の輪を作る。その輪と輪が重なり合うことを願いましょう。まず、身近なところにすがすがしい、さわやかな挨拶をすることから始めようではありませんか。