「心の一新によって」ローマ12:1-2


 ローマ書の中では、私たちを代価を払って買い取られた神の愛がどれほどのものであるのかが11章までで語られています。12章からは私たちがその応答としてどのように生きるかが具体的に奨められています。その始めに語られる原則がこの奨めでであり、「ささげる」ということです。
 「供え物」というとき、それは旧約聖書のいけにえです。全焼のいけにえは献身を、穀物のささげものは感謝を、和解のいけにえは交わりを、罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえは赦しを表すものでした。しかもささげる動物は傷のないものなくてはなりませんでした。私たちには、同じように、献身と感謝、交わりと赦しをささげることを傷なくするように求められているのです。
 そのようにささげることこそ霊的な礼拝だと言われます。霊的とは英語でReasonableと訳されます。理にかなった、筋が通ったという意味です。霊的であるということは、神の恵みに応えて例外なく神のみこころにかなう歩みをしていくことです。
 そのために必要なことは、「調子を合わせない」ことです。イエスの語られた4つの種のたとえの中のいばらは「世の富や心遣い」です。みこころがわかりながら、妥協を求められるようなことが起こってくるからです。しかもそれは、親子や夫婦、血縁、地縁という切っても切れないような関係の中で迫られることが少なくありません。
 だからこそ、心の一新、つまり、常に新たにしていかなければならないのです。どのようにしてでしょう。それは「絶えず祈る」ことです。私たちの罪の性質は私たちを神から遠ざけます。しかし、ひとり子イエスという愛の代価を払ってくださったお方から目を離さずにいることが求められているのです。