「心貧しき者の幸い」マタイ5:1-9

 人は生まれ育ちを選ぶことができません。N兄の生まれ育ちは過酷でした。寂しさ、不信、 信じられるは自分だけ。強く生きようとすることで自分を守ってきました。しかしその強さも、酒の力を借りなければならなかった。それが破綻してもなお、強がって生きようとした。それが主イエスと出会って変えられました。また、ともに分かちあった私たちも自らを深く探られました。その中で覚えたいことは「心貧しい」ということです。

 山上の説教の冒頭、イエスが教えられたのは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」という教えです。それは依存症の「私達は○○に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」という12ステップの最初と重なります。世の中は強く、頑張れと、努力で乗り越えろと言います。しかし、人は強くないのです。弱い器なのです。表向きどうにかなっているかもしれませんが、それを素直に認めるところ、それが神の国を生きる第一歩なのです。

 そして、それは悲しむ人、柔和な人と続きます。柔和とは獣が手懐けらるという意味を持っています。私たちは獣がぶつかり合わないように避ける術を持ちます。所詮わかりあうことはできないから、手を引く。我慢をすればことが丸く収まるのなら、いい子を演じる…。しかし、それは解決ではありません。真に受け入れ合うわけでもありません。

 11:23には「わたしは柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」とイエスは言われました。この「柔和」、それは十字架で自ら命を捨ててくださる愛です。そのイエスとくびきをともにする幸いを生きる時、平安と感謝と喜びをともにいただけるのです。