「思い煩いをゆだねる」1ペテロ5:7

この前でペテロが語った「謙遜」と「ゆだねること」は裏表です。謙遜でなければゆだねることはできません。また、ゆだねることができなければ謙遜ではありません。

 私たちの毎日の生活には思い煩いが尽きません。イエス様も山上の説教の中で、思い煩いについて教えられました。「だから、自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」同じ教えの中では主の祈り「私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい」と祈りようにも教えられました。

 その教えと共に教えられているのは、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」という教えです。自分の力でことをなそうと強い我をもって握りしめるのか、それとも自分が何者でもないという謙遜をもって手放して委ねるか、あなたの主人は誰ですかという問いかけです。

 1サムエルの13章にはペリシテに攻め立てられるサウルの姿が出てきます。民は勝ち目がないと見限って逃げます。最後まで従っていた者たちも離れ去ろうとし、頼りのサムエルは来ません。そこで彼は祭司しか許されていないいけにえをささげるのです。どうにか民をまとめようとして神の名を借りるのです。サムエルが現れて責められると、悔い改めることもせず、言い訳に徹します。いざ危機が訪れたときに人の本質が表れます。

 サウルは何者でもないところに選ばれた器に過ぎません。私たちもそうです。実に様々な思い煩いに翻弄されます。でも、何者でもない自分を主はここに置いてくださった。その謙遜のゆえに自ら握りしめているものを手放して神に委ねるのです。お約束は「神が心配してくださる」からです。