「悪をもって悪に報いず」1ペテロ3:8-12

 私たちの世界、「悪をもって悪に報いず」あるいは「右の頬を打たれたら、左の頬を」そんな生き方ができるんだろうか。それは、理想であって、理想は持ちながらも現実に対応するべきだと考えるキリスト教現実主義という神学があります。一方、徹底してそのままを生きる聖書現実主義という神学もあります。私たちは何を問われているのでしょう。

 ここの聖書の引用は詩篇34:12-16です。この詩篇、表題を見ると、「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が違ったかのように振る舞い、彼に追われて去ったとき」とあります。ダビデがサウルに言われなき迫害を受けて追われていることきのことです。嫉妬と憎悪、まさに悪に追われている。ダビデはすでにサムエルによって油注がれ、次の王となるべき召しも受けています。どんなにかみじめで、また身の危険を感じるようなことだったでしょうか。

 しかし、彼は徹底して自ら戦ったりはしません。サウルを殺せるチャンスも上着の裾を切って自ら忠誠を示すことがあっても、なお追われる。でも、徹底してこれを神に訴える祈りをもって委ねるのです。

 「炎のランナー」で知られるエリック・リデル。彼はオリンピックの後、中国伝道のためにすべてをささげます。しかし、日本占領下に置かれ、収容所生活を送ります。愛し、伝道した中国人が酷い仕打ちを受けます。そこで学ぶ山上の説教、「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」そこにいたメティカフ少年は理解できませんでした。しかし、「祈るとき、君は神中心の人間になる。祈りは君の姿勢を変える」と教えられました。戦後彼は日本で伝道します。復讐と憎悪、それは私たちの現実、しかし、祈りをもって、神中心の生き方に招かれているのです。