「感謝をささげる」レビ記2章、マタイ6:11

 出エジプトの民、奴隷として烏合の衆であった彼らを神の民として整えるために、神は彼らをシナイの荒野で訓練します。エジプトを出てちょうど一ヶ月、食糧は底をつき、パンがないとつぶやき始めます。神はマナを与えて彼らを養いました。日々の糧、その繰り返しを通して神の恵みに信頼することを教えられたのです。

 ところが、その恵みのマナにさえつぶやくようになります。長い荒野の放浪、その中で彼らは感謝を忘れてしまいます。感謝の反対はあたりまえ。マナさえ当たり前になってしまったのです。感謝が当たり前に変わるのはいつでしょうか。それは神を忘れるときです。満足が不満足に、不平不満に変わるのはいつでしょうか。それは神を忘れるときです。それを忘れることのなく覚えるように、神は穀物のささげものを定められました。

  穀物は働かなければ得ることができないもの、勤労の実です。そして、それは天候に左右されます。太陽の光、降り注ぐ雨。人にはどうすることもできない神の恵みによってこその実りです。また、働く者も健康でなければその実を得ることができません。そのすべてに感謝することを繰り返すのです。

 そしてその感謝は主の祈りの中に今も教えられています。そして食べる糧だけではありません。ルターは次のように教えました。「日ごとの糧とは、食べ物と飲み物、着物と履き物、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子供、信仰深い召使い、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友達、信頼できる隣人などで、これが日ごとの糧に含まれる。」私たちの日ごとの必要すべてが神の恵みであるのに、それを忘れてしまいやすい私たちに、神は「覚えの分」としてささげものをして感謝を表すことを願っておられるのです。