「救いは悔い改める者のところへ」イザヤ59:1-20

 暗やみで人は道を失います。目の前を一生懸命に照らしては行くべき道、帰るべき道を探しますが見つかりません。「私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ…」そして、手探りでどうにかしようとうめきます。最も必要なことは、動かぬ確かな光です。

 この章はやみの原因が「主の御手が短くて救えないのではなく、あなたがたの咎が原因なのだ」と告げます。私たちは聖書を読む度、創世記にある罪の初めに立ち戻らなければなりません。アダムとエバ、彼らの世界は光だったのが、闇になりました。互いを隠す闇、神の御前から隠れる闇、それは自ら思い通りにしたいという欲です。その欲はどんなものでも偶像にして祭り上げ、神のみ思いから私たちを遠ざけるのです。それが罪です。

 そのあり様は3節から「実にあなたがたの手は地で汚れ…」と続きます。一人一人の罪からはじまり、国や集団には「公義がない」という有様です。クリスマス、私たちは平和を願います。それには、争いと闇の原因を取り除かなければなりません。イスラエルは北の大国と南の大国エジプトに挟まれています。彼らは世界の祝福の基となるはずでしたが、いつもどっちについたら損か得かと揺れるのです。力の均衡で保たれる平和は本当の平和ではありません。世の闇です。

 しかし、ここにイザヤは贖い主を預言します。それは「そむきの罪を悔い改める者のところに来る。」それが私たちの光です。イザヤの預言から実に500年、待ち望んでいた救い主はバプテスマのヨハネの道備えから始まります。「悔い改めなさい。神の国が近づいたから」そして、時至ってイエスの十字架と復活に預かって救いの光が与えられました。この光に暗やみを悔い改め、道を導いていただこうではありませんか。