「救いは神のもの」1ペテロ3:17-22

 「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。」それは「いのちよりも大切なことがある。いのちをかける価値がある。」からです。また、キリスト者に与えられている救いが、この地上のことだけではないからです。

 ノアとノアの家族、彼らはなにゆえに救われたのか。それは神のことばに従ったからです。大洪水で世界が滅ぼされるなんて奇想天外なこと。しかし、彼はすべてをかけて、箱船を作ります。ノアは周りの人たちに一緒に救われようと熱心に証しし、誘い続けたはずです。神の御前に悔い改めることを勧めたはずです。それが「神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たち」です。彼らは「捕らわれた霊」。

 何に捕らわれていたのでしょうか。この世の神々であり、この世の慣わしです。真理から目を逸らせ、血肉のものしか見させないように、心捕らわれているのです。実に、その霊はまやかしです。真理から遠ざけ、神の御救いから遠ざけているのです。旧約聖書の中にイエスの姿は出てきません。ここではノアを通して、キリストは救いのことばを述べられたと考えることができます。

 同様に、私たちが救いにあずかるのは、キリストの御名によるバプテスマです。それは単に私たちの肉体の汚れ、つまり罪赦されるということだけではなく、「正しい良心の神への誓い」、それはキリストに従い、祝福の器としてお従いすること、いのちをかけることだとペテロは語っているのです。最後に、キリストの御力、それはすべての権威と権力を従えて、神の右の座にあって、一切のことに権威を持っておられるその御力に信頼していのちをかけて生きようではありませんか。