「救い主が来られた」黙示録3:15-22

「救い主が来られた」黙示録3:15-22

15        「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

16        このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

17        あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

18        わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

19        わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

20        見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

21        勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

22        耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」

 クリスマス、それは元々ローマ人が太陽の誕生日としてこの日を祝っていたことから始まったと言われています。キリスト教がローマの国教になったとき、それが「世の光」であり、「義の太陽」、あるいは「真の太陽」であるイエスの誕生を祝うものに替わって祝われるようになりました

 他の教会暦のイベント、イースターもそうですが、厳密な意味でキリストの誕生ではない起源を持つのがクリスマスです。初代のキリスト者たちもキリストの死と復活、再臨を記念していましたが、降誕を祝っていたという記事は見あたりません。そんなクリスマスですから、歴史の中にはクリスマス禁止令がでることもあったほどです。

 では私たちは何のためにクリスマスを祝うのでしょうか。

 第一に神がくださった救いを喜ぶためです。全世界のただ一人の救い主を神がお与えくださり、私たちを罪から贖ってくださったことを祝うのです。

 第二にクリスマスが持つもう一つの意味、それはキリストの再臨であり、救いの完成を待ち望む信仰です。ゆえに身をきよめるて主の救いを待ち望む。クリスマスの要素にこれは欠くべからざるものです。

 第三にキリストのよき訪れを告げ知らせるためです。

 世の中で本当の意味がわからず祝われている中にあって、私たちに与えられた救いの恵みとやがて来たるべき救い主を待ち望むクリスマス。今一度、来たるべき王なるイエスを迎えるにふさわしくあるかどうかを問い直し、救いの主を待ち望む信仰を新たにしたいと思うのです。

1. 一年を振り返る

 この年、私たちは次のみことばを一年通して覚えてきました。

 「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」黙示録19:5

 年の初めにこのみことばを掲げて始め、週ごとにこの礼拝堂で前を見ると、必ず目に入ったみことばでしょう。年間の主題聖句として掲げているみことばは、毎週かみしめながら、自らの歩みに照らし、一年を終えるときには、思い返していただけるようにと毎年選んでいます。神を讃美する生き方をしよう!それが一年の始まりでした。このことばはやがて来たるべき、御国の完成のときを覚えつつ、今は未完成。その狭間を生きる私たちが、この完成のときを仰ぎ見て、今を生きています。御国の完成を待ち望みつつ地上に生きる私たちにその橋渡しをする祈りは主の祈り。そのはじめに3つのことを覚えました。

 御名があがめられますように。それは神に不可能なことはないと信じること。クリスマス、処女マリヤのところに来た御使いは彼女に言います。マリヤは「あなたのおことば通りになりますように」とそれを信じ受け入れます。私たちも同じように信じて来たでしょうか。日常の歩みの中に、もうダメだ、もうムリだ。そのようにあきらめ、落胆するような思いに駆られたとき、主に向かって、こう祈ったでしょうか。

 御国が来ますように。世にあって、私たちには多くの戦い、それは霊的な戦いです。エペソ人への手紙では、その戦いとは、「血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいる悪霊に対するもの」だと教えています。サタンは実に巧妙な策略で私たちを支配し、神から遠ざけます。その戦いは目の前のものに目を奪い、戦いの本質を見抜くことすらできないように策略めぐらして私たちを誘うのです。戦いを見分け、主イエスの血潮による勝利に生きたでしょうか。

 みこころが天で行われるように地でも行われますように。それは「王の王、主の主」であられるお方の御前にキリストの花嫁として整えられることでした。ヨハネがこの黙示録を書いたのは、ローマ皇帝ドミティアヌスの厳しい迫害の時代でした。様々な戦いを挑まれる中、神を讃えるいのちを通すことを主は励ましたのです。

2. 自分の姿をもう一度知る。生ぬるい心

 さて、その地上を生きる私たちに語られたのが同じ黙示録の次のことばです。

 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(3:15-17)

 私には虫歯があります。先日、とうとうその虫歯が痛み歯医者に行きました。もっと早く行けば良かったのです。虫歯は放っておいても決して治りません。痛みがあることはサインで、悪化への一方方向です。即刻病院にいって治療を始めなければならないのです。しかし痛みが収まると今度、今度と引き延ばしてしまい、その間にまた悪化するのです。それが分かっているのに先延ばしにするのはなぜでしょう。痛みに触れられるのがイヤだからです。私は虫歯が何本もあると言われていました。長く、痛い医者にかかるのはできるだけ先延ばしにしたいのです。決して治らないのがわかっていてもです。もう、耐えられなくなって、歯医者に行くと・・・別の歯医者に行ったのですが・・・虫歯は軽度のものが2本だけでした。これまた先の歯医者はヤブだったということでしょうか。正しい診断、適切な治療、その後のケアがどうしても必要です。

 私たちの心と思いと罪もまた同じ性質を持っているのです。実は、その心はここでズバリと言われているように先延ばし、先延ばしにして向き合おうとしません。結果、なまぬるい信仰になっていることが少なくないのです。正しい診断、それはみことばに自分を向き合わせ、照らし合わせ、神の基準にふさわしものかどうかを問い直すよりないのです。ヤブ医者にかかって、誤診をされたり、痛み止めでごまかすように本当の赦しといやしではないもので一時逃れをしようとしたり、日常の忙しさで先延ばしにしたり、そんなことはなかったでしょうか。

 このことばの前に、生ぬるくはなかっただろうか。救い主が来られた。このことにふさわしいかどうかを問い直していただきたいのです。

3. 神の心を知る、圧倒的な愛

 先日、「ロバートおじさんの贈り物」という話を読みました。友人の牧師がしていた話です。ちょっと私なりの脚色つけてお話ししましょう。

 ある女性が自分の子ども時代のことを思い出しながら話した話です。その女性は、牧師の家に生まれました。お父さんは小さな田舎の教会の牧師をしている。クリスマスの時期は何かと入り用が多いのが教会であり、牧師の家庭です。彼女にはおじさんがいるのですが、そのおじさんは結婚していなくて独身です。そのおじさんが毎年クリスマスの時期になると500ドルの小切手を送ってくるのです。500ドルって、今のお金に合わせると20万円くらいでしょうか。それは田舎の牧師にとっては一年に一度のボーナスのようなもの。そのプレゼントで、それぞれクリスマスに何かを買う。それを毎年毎年楽しみにしていたのです。

 ところがある年、小切手の代わりに大きな箱が届きました。きれいなラッピングされて、リボンがかかっています。そしてそのプレゼントに沿えて手紙がありました。「クリスマスに小切手だけを送るのはなんとも冷たく思える。それで今年はプレゼントを贈ることにした」と。

 その箱をツリーの下に置いて、クリスマスの日を楽しみにしていました。そして、25日の朝、箱を空けてみると皆愕然とします。なぜって、箱の中に入っていたのは、この家には不釣り合いな高価な物ばかりだったからです。

 お父さんがクリスマスに欲しかった物。それは新しい靴。もう長年履いた靴を新しくしようと楽しみにしていたのです。それなのに、入っていたのはハンティングに行くようなレザージャケット。お父さんにはお金以上に無縁なもの。お金以上に無縁なものというのは、どこかに遊びにいくことです。そんなこと、考えたこともありません。

 お母さんは、今年は手動ミシンに電気の電気のモーターをつけたいと思っていたのに、もらったプレゼントは、わに革の高級ハンドバックでした。滑稽なまでにも不釣り合いです。お母さんはこのバックに見合う服なんて持ってないのに。どうしておじさんはこんなものを選んだのでしょうか。

 みんな寄ってたかって、プレゼントに文句を付けました。だいたいおじさんは金持ちで、私たちの世界とは違うとか、全然私たちのことを知らないんだとか、だからこんな私たちには似合わない贈り物を選ぶんだとか。こんなもの、欲しくない。私の欲しかったのは○○だとか・・・。

 お父さんが、その時、立ち上がってみんなに言います。

 「みんな聞いておくれ。私たちが何を必要として、何を欲しがっているのか、ロバート叔父さんはちっともわかっていないと、みんなは思っているだろう。だけどほんとうにそうだろうか?

 お父さんは、むしろわかっていないのは私たちの方じゃないかと思う。みんな知っているように、おじさんは独り者だ。だから毎年クリスマスになって、(私たちの家族のようにお母さんがいたり、みんながいたりするわけではないので、)私たちを家族のように思ってプレゼントを送ってくださる。何がいいのか、思いつかない。だから、毎年小切手を送ってくれた。それはきっととても寂しいことだと思うよ。それが今年は、プレゼントを選んでくれた。何を買ったら喜んでくれるか分からない。それはそれでも、おじさんはおじさんなりに一生懸命考えてくれた。忙しい時間を裂いて買い物に行ってくれた。これを選ぶんだって簡単じゃない。あれがいいかな。これかな。これだったら喜んでくれるかな。どんな顔して受け取るだろうか。小切手一枚送るのとはわけが違う。みんなだってそうだろ。プレゼントを贈るときっていうのは、受け取る相手のことを一生懸命考えるもんだ。

 おじさんは、うちのグレースのように7歳の女の子だったら、何が欲しいかなぁ。お母さんだったらどうだろう。いつも子どもたちの世話、食事を作り、洗濯をし、家の掃除をし、子どもたちを学校に送りだし、また迎え、毎日毎日、あくせくあくせく働いている。たまには女の人だからオシャレもしたいだろうに。そんなゆとりがあるわけじゃない。せめてハンドバック、夢のようなオシャレにな気持ちになれることはないだろうか。そんなことを考えてくれたんだよ。

 私はジュエリー屋さんの社長H兄、あぁ、ここにいますね。若い頃、たぶん、30年近く前のことだと思いますが、教えていただいたことがあります。「贈り物は心です。」いい言葉ですよね。H兄、ね、ダイヤの指輪、ダイヤのベルトのバックルと付けて売っているオシャレな兄が仰るわけですよ。兄のところには、それこそ高価な宝、いくらでもあるわけですよ。けれど言うんです。「贈り物は心です。」

 ところが、私たちは贈り物をする人の心を考えちゃいない。もらった物が自分にとってどうかってことしか考えちゃいない。そうじゃないでしょうか。「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」と言われる通りです。

 神が私たちに送ってくださったのは、救い主キリストです。しかも、キリストがこの世に来られたのは、十字架に死に、その血潮によって私たちを救うためです。

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

・・・

 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

(イザヤ53:3-10)

 この神の心、いのちを捨てるほどの大きな愛、それが本当に分かっているでしょうか。心からの感謝を覚えているでしょうか。それにふさわしい生き方をしてきたでしょうか。このクリスマス、私たちは御前にひざまずかなければならないのではないでしょうか。

 「火で精錬された金を買いなさい。」それは、高価なものです。あなたのすべてを賭けても手に入れるべき宝だと言うのです。「裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。」それは、十字架の血潮のきよめこそがすべてであることを告白しなさいといことです。「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」それは、この恵みの素晴らしさをしっかりと見つめなさいということです。

4. 戸の外に立って叩く主

 自分の罪深さ、神の圧倒的な愛、しかし、その恵みの素晴らしさがわかっていない者たちに、厳しいことばをもって迫ることばが続きましたが、最後、主は、わたしたちを招いてくださいます。主、自ら戸の外に立って叩くと言われます。私たちは自分の囲い、自分の家に閉じこもって生きようとしている。そこに戸を叩いてくださる。

 イエス様のご生涯、食事をしたのは、罪人、取税人、遊女といった人たちでした。彼らは戸を開けて、イエスを迎えました。そこに後ろ指指されるのです。「あの方は罪人のところに行って客となられた」(ルカ19:7)、「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」(マタイ9:10-12)

 イエスの答えは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(マタイ9:12)でした。

 食事をするというのは、親しくなければできません。どんなに豊かな食卓でも、敵とは食事はできません。喜びや悲しみを共にし、いのちをともに受けるのが食事の場です。彼らが戸を開けたのは、イエスが戸を叩いたからです。招きに応じたのは、この恵みを知る人、悔い改めてイエスを迎えた人たちでした。

 今、主は、あなたにも同じように問いかけをしておられます。自分自身の罪深い姿を真に悔い改め、恵みにふさわしく、イエスの招きに応じて生きるなら、そこには、主イエスと喜びを共にし、あるいは、ともにそれを喜ぶ人たちと恵みを分かち合う。救い主が来られたことを喜び迎える。赦しと愛の恵みに満たされる。そこには地上では罪人呼ばわりされ、あるいは迫害を受けようとも、罪の世の軋轢に涙することがあったとしても、やがて来たるべきキリストの日に勝利が約束されている。それをともに喜ぼうではありませんか。