「救い主を迎える備え」ルカ1:57-80

「救い主を迎える備え」ルカ1:57-80

 ルカの福音書を紐解いています。前々回は子どもが与えられるという御使いのお告げを聞いたザカリヤを中心に、前回はマリヤへの受胎告知のところを学びました。二人とも「いきなり」でした。ザカリヤにとっては「いまさら」。もうこの歳になってすでにあきらめていたことでした。そこに告げられる言葉に疑い、いまさらという思いをもった彼にそれが起こるまで口がきけないというしるしを与えられたことを読みました。
 マリヤにとっての「いきなり」は「戸惑い」です。「どうしてそのようないことがありましょう。まだ男の人をしりませんのに」という彼女に与えられたことばは「恵まれた方」。何が恵みであるのかということを学びました。恵みというものは私たちが一生懸命ことを考え、選び行ってきたことではなく、神様が与えてくださったもの、感謝してそれを受ければいい。それがなんと難しいことか。マリヤにとって子を宿すこと、処女であるということばが強調されていますが、それを受けるということはいろいろな困難を覚えることでした。エリサベツのもとに急いで行って3ヶ月の間、そこで過ごしますが、ナザレに帰るとヨセフはどう受け止めるんだろうか。周りの人はどう受け止めるんだろうかということから始まって、ベツレヘムでは家畜小屋で出産しなければならなかった。産んだと同時に時の王ヘロデは疑心にかられて幼児虐殺の命令を出す。そしてエジプトへ避難しなければならなかった。そして、最後の極みは神様が与えてくださったこの子が十字架で死ぬ、その場面を見届けなければならなかった。そこからよみがえって、見救いを与えてくださる救い主だと確信したときに、私はその務めをいただいたということを間近で見ることができるとは何と感謝なことなのか。それこそ恵みだということです。
 同じように私たちに与えられた恵みは、神様が与えてくださるものを受ければいい。感謝して受ければいい。バベットの晩餐会という映画の話をしました。
 今回の箇所は、「エリサベツは月が満ちて男の子を産んだ」そのところです。いよいよ10ヶ月の時が満ちて男の子を産み、神様がエリサベツにあわれみをかけてくださったことをともに喜び、新しいいのちを喜びました。そして、8日目になりますと、ユダヤ人の週間ですが、割礼を施します。その時に名付けをします。マリヤが名はヨハネとしなければならないと言いますが、当時の週間は父親の名前を付ける。親族の名前を付ける。そうでしたが、ヨハネという名前は親族の中にも誰もいない。口がきけないザカリヤに訊くと、彼は書き板に「その名はヨハネ」と書いたので、人々はたいそう驚きました。ヨハネというのは「主は恵み深い」という意味です。その名前を付けるとたちどころにザカリヤの口が開き、不思議なことが起こったとユダヤの山地全体に知れ渡りました。

 今日、目を留めたいのは、67節にある「父親にザカリヤは聖霊に満たされて預言した」というそのことば、そのいくつかを拾って、心に留めたいと思うのです。

1.聖霊に満たされるとは
 ザカリヤが聖霊に満たされて預言したというのはどういうことでしょうか。旧約聖書の中にも預言者たちが主のことばを聞いて語ったということがたくさん出てきます。この出来事はザカリヤが特別な恍惚状態とかトランス状態になって語ったということは少し違うようです。ザカリヤはエリサベツが子を宿している10ヶ月の間口がきけません。教会連合の中に東洋ローア伝道教会という教会があります。ろうあ者の教会です。全国に約40箇所の伝道所、800人ほどの会員のいる教会です。賛美をささげると手話賛美です。教会連合ができましてから約30年、どこかでよい交流や交わりができるようにと願って工夫しますが、なかなかその壁が越えられないのです。書き言葉は同じでも、読み言葉、日常の会話、手話のは違います。私たちは「今日はいい天気ですねぇ」と言いますが、手話だと「今日、いい、天気」と助詞がありません。ですから、その言葉を埋める訳です。教会学校でゲームをしました。オンラインのゲームで「はぁ」というゲームがあります。「はぁ」という一つのことばにもニュアンスがあって、いろいろな意味があります。ため息の「はぁ」あり、疑いの「はぁ」あり、ため息の「はぁ」あり。いろいろです。それを私たちは無意識に使い分け、思いを表現します。語調や表情含めて全部違います。それを当てるゲームです。手話にそれはありません。感情や思いの行き違いというものをどうにか埋める訳ですが、あいまい、埋まらないそういうものがあります。まるで言葉が日本語ですが、違うのですが、文化が違う。外国人と話しているようなそういう違いがあります。今朝も7時前、お電話がありまして、英語で話すので、ゆっくり話すと、礼拝にでたいということでした。でも、日本語だけなのでごめんなさいとお知らせするしかありませんでした。言葉通じないということはすごく不便です。国際結婚に聞くカップルに話を聞くと様々なすれ違いが起こります。いちいちわからないことを説明しているのがメンドウなので、わかったフリをするというのです。お互いわかったつもりのことがわかっていないということが起こって困るというのです。しかも文化がどうにかなるやぁと思う文化もあれば、細やかなことがいろいろ気になる文化を持った人もいます。それは国の違いだけではない男女の違いもあります。
 ザカリヤの10ヶ月間というのはどうだったでしょうか。自分の考えや感情や気持ちを伝えられない。そういう10ヶ月であったことでしょう。耳に入ってくること目に入ってくることはあるけれど、表現ができないと内に自分の中でいろいろこの出来事はどういうことなのかと考えざるを得ない。
 ザカリヤにとってどういうことでしょうか。もう一度、御使いに告げられたことばを振り返って見ましょう。おそらく、この間彼はどういうことなのだろうかと考え続けたことでしょう。

13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。

 ここまででザカリヤの頭はストップしていたことでしょう。その続きのことばを考え続けたことでしょう。

14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」

 このことばは最初、何のことかわからなかったでしょう。それはどういう意味を持つことばなのかをこの10ヶ月の間考え続けたことでしょう。あり得ない神の恵みをこの目で見ることになった。御使いの告げたことばがどのように実現していくのか、それを考えを続けて、口が開かれるようになったときに、「聖霊に満たされて預言した」とありますが、その時、何を口にするでしょうか。10ヶ月口がきけなくて、口がきけるのようになったら何を最初に話すでしょうか。話したいことはなんでしょうか。この10ヶ月間を嘆いて周りに当たり散らすのか、この10ヶ月間支えてくれた周りに感謝をするのか、あるいはそれを越えて、自分を取り扱われた神の恵みを語るのか。ザカリヤは神様のお取扱を考えたのです。
 私たちはコロサイ書をずっと学んできました。古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着る。でも、それをかなぐり捨てるような古い心がもたげてくるような私たちに、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。] (コロサイ3:16)ということばを学びましたが、新しい人になるのです。
 ザカリヤはこの10ヶ月間でいままで生きてきた生き方ではない。聖霊に導かれて、いろいろなできごとを見聞きして考え続けてきた。祈り続けてきたでしょう。そして新しい人になって、「聖霊に満たされて預言した」と書かれていますが、それはすでにザカリヤに語られていたことです。もう一つは、このエリサベツとザカリヤの夫婦を訪ねてやってきたマリヤから聞いたことです。そうするとザカリヤは聖霊に導かれて、御使いの語られたことばを改めて確信し、マリヤに起こった出来事を確信し、今、神様に与えられている恵みを証する。それがこの68節からのことばの意味でしょう。
 特別なものがやってきてこのことばを語ったのではなく、10ヶ月おしになって、ことばがしゃべれない中に聖霊を通して問いかけて下さったことの理解を与えられた。新しい人になって、このことばを語った。

2. 神のくださる平和と私たちのうちにある平和ならざるもの
 ザカリヤの語ったことばの最後に彼に委ねられたことばの結論とでもいうべきことばが出てきます。

78         これは私たちの神の深いあわれみによる。
        そのあわれみにより、
        曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79         暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、
        私たちの足を平和の道に導く。」

 神様が救いの光を与えて、あわれみをもって私たちを平和に導く。それを今や始めようとしているのです。最後にでてくるのは「私たちの足を平和の道に導く。」ということばです。
 先週、私たちは真珠湾から80年という時を迎えました。二度と同じ過ちを繰り返してはならないという私たちの先輩方、80歳、90歳という方々がそう言います。私たちの敬愛するH兄も、「戦争は人殺し。絶対ダメだ」と言います。まだ徴兵の前の年齢。自ら少年兵として志願し、戦地に向かうまえに敗戦を迎え、多くの先輩たちを戦地で失った兄がそう言います。2000年、ミレミアムを迎えたとき、21世紀はどんな未来が待っているのだろいうか。20世紀を生きてきた者たちは期待をしました。20世紀は人類の歴史上、最も多くの人が殺された時代です。飛行機を手に入れた人類は、世界中どこにでも飛んで行けるようになって、したことは爆弾を落とすことでした。こういう戦争が行うようになった。二度の世界大戦を経験し、多くの人が殺されました。21世紀は平和に、そして、20世紀を生きてきた者たちにとっては少年の頃読んだ未来像に心ときめかすものがありました。しかし、21世紀になって起こったのはテロとの戦いです。アルカイダが出てきて、イスラム国が出てきて、争いは世界規模ではないかもしれない。どこでも鳴り止まないものとなり、グローバル化による搾取と人権侵害ということが語られるようになりました。平和はどこにあるのでしょうか。
 ヘンリー・ナウエンが「平和への道」という著書の中にこんなたとえを書きました。

「 ある時、世界の資源を統計的に調査した人たちがいてお互いに言い合っていました。「困難なときにどうやって私たちは必要なものを確保できるでしょうか?どんなことがあっても生き延びなければ・・・食料、物資そして知識をため始め、危機が来たときに安全で保証された生活ができるようにしましょう」。それでその人たちは次から次へと必需品を蓄えたので、ついに他の人たちが抵抗して言い出しました。「あなたたちは必要以上のものを手に入れたけれど、私たちには生きるのに必要なものがありません。蓄えた富の一部を私たちにください」。
 しかし、恐れで一杯だった人たちは「いえいえ、私たちは緊急事態のために生活が脅かされないようにこれだけ必要なのです」。
 時が過ぎて他の人たちが言いました。「私たちは今死にそうです。どうぞ、食べ物と物資と知識を私たちに与えてください。もう待てません。今必要なのです。
 そして、恐れで一杯の人たちはますます貧しい人や飢えている人に襲われるのではないかと怖がっていました。そこでお互いに言い合いました。「私たちの身の回りに塀を築きましょう外から人が入ってきて私たちの物を奪われないために」。このようにして高い塀を建て、恐れが増すに従ってまたこう言いました。「敵はあまりにも多くなって、私たちの壁を倒してしまうかもしれない。私たちの壁は敵を防ぐだけの頑丈なものではありません。だから、壁の上に爆弾を置いて誰も近づけないようにしましょう」。
 けれども、安心するどころか自分たちの恐れで築いた牢屋に彼らは閉じこめられてしまいました。」

 世界にはこういうものが満ちています。平和の鍵はどこにあるのでしょうか。喜び、愛し合い、分け合い、一つ心で生きること。それはどこからやってくるのでしょうか。それは、私たちひとりひとりの心のありようが問われることです。みんながということではありません。一人一人がどのように生きるのか。どのように選ぶのか。どのように平和を生きるのかが問われているのです。

3. 神の平和、救い主を迎える備え
 ここにザカリヤが預言し、救い主の誕生、エリサベツのもとにやってきたマリヤの話を聞き、神様がご計画を立て、救い主をお送りくださったことを誰よりも早く知ったのがザカリヤです。それで聖霊に満たされて預言したことばが次のことばです。

68         「ほむべきかな、イスラエルの神、主。
        主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69         救いの角を私たちのために、
        しもべダビデの家に立てられた。
70         古くから、その聖なる預言者たちの口を通して
        語られたとおりに。

 これはマリヤのお腹に宿った幼児イエスをして、神が私たちを救おうとしておられる。神様のみ救いは今や私たちの元に来たというのです。

71         この救いは、私たちの敵からの、
        私たちを憎むすべての者の手からの救いである。

 ここに敵という言葉が出てきます。ナウエンの話というのは「仮想敵」です。目に見える周りの者たちが敵なのです。でも、ここにザカリヤが預言したことは、順が逆になりますが、77節には、

77         罪の赦しによる救いについて、
        神の民に、知識を与えるからである。

 と出てきます。敵、私たちの一番の敵というのは、神から引き離す罪というものが私たちの本当の敵なのだということを覚えなければなりません。ところが、私たちはその敵を見誤り、間違えてしまうのです。周りが敵、ますます、恐れは大きくなり、ますます壁は厚くなる。そして、閉じ込められた生活をせざるを得なくなります。私たちは知っています。塀の高い家は危ない。ドロボウが入るのはそういう家です。外から見えなくなるからです。私たちの心もそうです。何が問題かというと、神から離れているので、人を受け入れられず、人をさばき、自分のことしか考えない罪こそが私たちの真の敵です。ですから、救い主を迎え、罪を赦していただくために必要なことは、罪を知ることです。

76         幼子よ、あなたこそ
        いと高き方の預言者と呼ばれる。
        主の御前を先立って行き、その道を備え、
77         罪の赦しによる救いについて、
        神の民に、知識を与えるからである。

 これはバプテスマのヨハネがなすことです。主が来られる前に罪の悔い改めのバプテスマを施します。人々は続々とヨルダン川のヨハネのもとに言って、罪を告白してバプテスマを受けます。この1章の初めてではその罪について御使いが告げました。「父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて」(1:17)とありました。それは、身勝手な父親たち、それが多かった。我が子、我が家族のために心を使い、愛の心を持って生きる人。そうでないあなたがたはとヨハネはそう言ったのです。時の王にも憶することなく、その結婚を責めます。ですから、最後はサロメによって首をはねられてしまうことにまでなるわけですが、罪を指摘し、それは救い主を迎える備えなのです。
 救い主を迎える備え、それは我が罪を罪として自覚して、悔い改めて救いを求める。それが最も大切な備えです。今こそ、救いの角が立てられた。救い主が来られる。そのときに罪の赦しを語り、救い主を迎え、私たちを平和の道に導く。それが神が今、なさろうとしていることです。ザカリヤはおしになってものが言えない間、神様が遣わした御使いが告げたことばを反芻しながら、見聞きすること、あり得ないと思っていた自分たち夫婦に子どもを与え、起こり得ない処女マリヤが身ごもるということを見て、救いのご計画をなそうとしている。それを御霊に満たされて、神がなそうとしている。それがわかった!だから、私はここにその預言のことばをもって、周りもこれを知るように!これがザカリヤが語ったことばです。
 救い主を迎える。その備えに最も大切なことは「我が罪がいかに重いのか」です。そのために、平和ならざるもの、それを私たちの身の周りにもっと置いてきたことか、いや、今ももっているのか。主よどうぞ、教え、赦し、平和をくださるために、救い主をお送りくださった。いまだ、まだ、抱えている心の奥底にしまってある大きな罪、何か眠ったままでいるけれど、抱えている怒り、憤り、コロサイ人への手紙では「捨ててしまいなさい」と教えられてきましたが、捨てられないそのような思い、主が赦してくださるのだから、代わりに負ってくださるのだから、このアドベントのこの週、罪を教えて下さい。平和ならざるものが我が心にあるならば、その罪を主よ教え、イエス様の救いの喜びを、赦しの恵みを新たにさせてくださいと祈りましょう。