「栄光を待ち望む」ローマ8:18-25

 新しい年を迎えて、みことばを掲げて前進したいと願っています。この箇所の直前に、すでに「神の子どもとされた」こと、一方で、「子とされること、からだの贖い」を待ち望むと書かれています。確かに今、神の子とされていますが、救いの完成、天に迎えられる時との狭間を生きているのが私たちです。その私たちは今をどう生きるべきか問われているのです。
 今、私たちは地上にあって、「なぜですか、いつまでですか」とうめいています。神が世界を造られたとき、それは「非常によかった」という素晴らしい世界でした。ところが、そこに罪が入り、神から離れたゆえに、いわば根のない木になってしまいました。根なしにいくら葉を茂らせようとしても、実を結ぼうとしても、すべてが「虚無」。そのような世に置かれています。しかし、やがて来るべき「栄光の自由」に入れられる。それは黙示録21章に描かれています。新しい天と新しい地。そこで涙が拭い去られ、すべてが新たに回復するのです。
 信仰の先達たちは、その天の故郷を仰ぎ見、地上では旅人であり寄留者であることを告白していました。ヘブル11章には、ノアやアブラハム、イサク、ヤコブをはじめとする信仰者たちがみなそうだったと書かれています。彼らの歩みを読んでいくと、様々な地上での苦労、飢饉や争い、ウソや偽り、家族のトラブルや悩み。この世の生涯に点数を付けたらどうでしょう。あなたはどうですか。赤点ばかりの失格者でしょう。しかし、彼らは天での栄光に光と希望を見続けていたのです。
 私たちも同じです。長いトンネルの向こうには出口があるから、その光が見えるからこそ進んでいけます。そして、御霊が私たちにその光を見失わないように忍耐を与えてくださいます。ならば、いつ主の日が来ても喜びを持って迎えられる心を日々備えながら、うめきの中でも栄光の日という光を待ち望みつつ歩んでまいりましょう。