「祈りの心はどこに向くのか」マタイ6:5-8

 善行、祈り、断食という3つの「霊的生活」、本来それは私たちが心から神に向かうべきこと。しかし、その心の向かう先がおかしくなることがあるのです。

 ユダヤ人は朝、昼、夕という祈りの習慣を持っていました。その時間になると「人に見られたくて」という偽善者が現れる。私たちの心の動機は、「かっこいい、もてたい」=自己満足、プライドと称賛や承認を求める心があります。どれだけ、人の目を気にしてその評価に依存しているでしょうか。祈りのとき、混じりけのある心を捨てて、心から神に向かわせてくださいと祈ることから始めなければならないのが私たちです。

 第二に、自分の奥まった部屋に入りなさいとの教え、それは捨てるべきもの、閉め出すべきものがある、それを教えるとともに、自分の心の奥深くに神を迎え入れることです。ルカ18章にはパリサイ人と取税人の祈りが対比されています。パリサイ人は取税人と比較して自らを誇る祈りをします。一方で取税人はただ「罪人の私をあわれんでください」と祈ります。奥まった部屋とは自分でも開いていない心の奥底にまで神を迎えることです。

 第三に同じことばを繰り返すなと主は教えます。15章にはツロ・フェニキヤの女がイエスに願い出る話が出てきます。しつこく、何度も何度もイエスに願うのです。そして、彼女は「子犬でもパンくずはいただく」と告白します。その祈りにイエスは答えられます。大切なのは、信仰です。神は必要を先んじてすべて知っておられる。私たちの祈りに必要なことは、神には力と権威がある。それを信じ求める信仰です。

 あなたの祈り、その向かう先はどこを向いているでしょうか。主イエスの教え、それは心からの祈りへの招きです。