「神との交わり、いのちのパン」レビ3章、ヨハネ6:35, 51-58

 私たちは交わりということばをよく使います。そしてしばしば暖かいとか冷たいとか、そういう言葉遣いをします。教会本来の交わり、一致の基はどこにあるのでしょうか。教会とはキリストのからだです。からであるということは、切り離すことのできない一つのものです。そして、その一致の基は共に神の御前に立つことです。

 旧約の民も同じです。エジプトで奴隷であった烏合の衆が神の民とされます。そのために与えられたのが律法と幕屋での礼拝です。ところが、そこから逸れていくのです。とことん罪深い人間、恵みとあわれみの神。悔い改めと信仰による神との交わりの回復は民の中の交わりの回復に繋がります。旧約にはそれが繰り返されます。守り続けるべき礼拝の民として献げる礼拝の一つが交わりのいけにえです。

 交わりのいけにえの中心は食べることです。脂肪と腎臓・小葉を神に焼いて献げますが、残りを奉献者が食べるのです。脂肪は一番よいところ、腎臓・小葉は心の座、つまり心をもささげ、また共に食するという交わりなのです。私たちは自らの意思なしに食べることはありません。また、神の御前に赦され、受け入れられて交わりを回復したからこそ共に食することを喜ぶのです。

 幕屋での礼拝はすべてイエスによって成就しました。そして、初代教会がイエスに教えられたのは聖餐です。それはキリストの身代わりの死によって罪贖われ、救われた恵みを表すものです。また、一つのパンを分け合うことを通して、キリストのからだである教会がひとつであることを告白し、自分もその一部であることを確認するものです。だから、イエスは私がいのちのパンですと言われたのです。聖餐こそが、共にイエスの恵みを食する交わりこそが教会を教会として立たせるものなのです。