「私たちの宣教と主の御手」使徒11:19-26

 迫害によって散らされた人たち・・・わかりやすいことばで言うと迫害難民です。彼らにとって衣食住、それは大変なことであったと思います。私たち人間はそのために争ったり、人を殺したりまでするのです。そのような危機を通るとき、本物かどうかが試されるのです。そんな彼らが証し続けたということは、その信仰が本物だったということです。たとえ迫害や危機があったとしても、十字架の主イエスを信じる信仰によって彼らは生きたのです。そしてそれが周りの人たちを福音に導く原動力となりました。
 彼らはアンテオケで異邦人にも福音を語り始めます。何もないはずの彼らが信仰によって生きる証しは周りの大きな励ましをなりました。そこには喜びがあったからです。
 誰が福音を語ったでしょう。一人一人です。ローマ10章にある「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」それが彼らの確信です。一方、それを聞かなければ、伝えなければ救われることはありません。私たちにも語りかけられているのは、「あなたでなければ届けられない人がいる」ということです。あなたにとっては誰でしょう。
 結果、大勢が信じて主に立ち返ります。それは「主の御手が彼らとともにあった」からです。私たちは福音を語り、証しをします。一方で、ときに努力しても報われないと自分を責めたり、あるいはあきらめたりします。しかし、救いをくださるのは主ご自身によることです。私たちは伝えますが、人の心を動かし、救いに導くのは聖霊の働き、主の御手によるのです。
 弱い器である私たちですが、主が用いて下さって福音を証しし、それを用いて主の御手が救いに導いて下さるようにと、とりなし祈り献げようではありませんか。
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