「筋を通す生き方」使徒16:35-40

 この箇所は聖書の中でも異色に感じられる出来事です。不当な扱いを受けたパウロが不服を申し立てます。ここに聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。

 ローマ帝国は法治国家でした。多民族、多宗教、多文化の国を一つにするのは容易なことではありません。独裁国家はやがて不満が革命となり続きません。カリスマ的リーダーや偶像に頼るのも一時代です。すべての道はローマに通ずという安定した国の統治のためには誰しもが納得できる基準としての法治が必要だったのです。その中でパウロたちの事件は民事不介入の事件です。治安維持のための騒擾罪ならまだしも、誤認逮捕とでもいうような出来事です。一晩留置されて、釈放となったときに正式な手続きを経ないことに対しての不服申し立てであったわけです。

 世の中では不正が行われます。不正が見過ごされます。うやむやに見逃されます。一方でキリスト者は地の塩、世の光としてそれぞれの場に置かれています。マタイ5章には地の塩として生きる者たちに、この世の言い伝えについてどのように処すべきかが教えられています。「『殺してはならない』と言われたのをあなた方は聞いています」から姦淫、離婚、目には目、歯には歯という言い伝え。そこでは心の思いが問題で、最終的に「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と教えられています。

 そう、神の御前にあって筋の通った生き方をし、地の塩として世に遣わされていることが、イエスの教えであったのです。私たちは周りを見てことを決めたりします。しかし、天の父の御前にどうなのか。その筋を通すことを教えられているのです。主にあって、地の塩として置かれている。筋の通った言動、筋の通った歩みをして神をあがめましょう。

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