「罪なきルーツ、恵みの支配」ローマ5:17-21

 神であるキリストが人となられたのは、処女マリヤを通してでした。当時の結婚は両家が結婚に合意すると、花婿側は花嫁料を払い婚姻関係を公にします。一年の後に一緒になる、ヨセフとマリヤはすでに許嫁でした。最初に懐妊を告げられたのはマリヤ。彼女は戸惑いながらも、「神にとって不可能なことは一つもありません」と確信をします。一方、ヨセフにとって、それは裏切りを意味することでした。マリヤは説明をしたでしょう。しかし信じられません。あり得ません。一方、マリヤを信じている。だから彼は深く思い悩み、「内密に去らせようとした」のです。

 ヨセフは夢の中に現れた御使いのことばを信仰によって受け止めました。聖書の中には信じがたいことがでてきます。ことが事実であるかは問題ではなく、そのメッセージやストーリーが大事だと考える人も少なくありません。しかし、神のなさること、それを人の考えられる狭い範囲に閉じ込めるべきではありません。信仰をもって受け止めることが求められていることです。

 さて、私たちはアダムから始まる生まれながらに原罪を持つルーツに生まれます。どんなに否定しても、その連鎖の縄目から抜け出ることはできませんし、努力によって罪から解放されるわけでもありません。そしてその罪の世界に悩み苦しんでいるのです。

 処女降誕、それは罪なき新しいルーツをキリストが始めてくださったということです。人が贖われるための犠牲は罪ないものでなければなりません。罪なく生まれ、愛ゆえに十字架でいのちを捨ててくださった。それを信じる者は恵みによって赦され、生かされ、愛に生きる新しいルーツをいただくのです。古いものを脱ぎ捨て、恵みが支配するところに私たちは招かれているのです。

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