「罪の赦し」マタイ6:12

 私たちの世界は決して難しいことばを必要とはしていません。「ありがとう、ごめんなさい、赦します」という3つがあれば、たいていの問題は解決します。しかし、私たちの心は「あたりまえ、そっちが悪い、顔も見たくない」と真逆のことを思うものです。他者中心の生き方と自分中心の生き方です。とりわけ、それは「赦し」に現れるものです。

 主の祈りではこの赦し、言い慣らしてきた訳では「罪」、新改訳では「負い目」と訳されています。負い目とは負債、借金を意味します。日本人の罪意識というもの、それは罪や汚れは払うものです。ですから、お祓いをしお清めをするのです。一方で聖書は罪は心の内側から出てくるもの、拭っても拭っても拭いきれないものと教えます。そして、それ以上に、やがて神の御前に清算しなければならないもの、だから負い目なのです。

 マタイ18章には一万タラントの借りをゆるされたしもべの話が出てきます。一デナリが一日分の労賃、六百デナリが一タラント、どんなことをとうていしても返せない借金です。それをゆるされた。それは神の大きな愛とあわれみのゆえです。私たちの罪は主イエスの十字架の代価をもって払われたゆえに赦されたものなのです。

 一方、私たちは赦された罪人に過ぎず、いまだ不完全な者、罪を犯す者です。何度でも何度でも罪の赦しを祈り願わなければならない、いわば生涯、悔い改めを生きるべき者です。それが最もよく分かるしるしは、人に対する赦しでしょう。赦されていながら赦せない。それは自分がいただいた恵みの大きさ、愛の深さがわかっていないしるしです。だからこそ、主の祈りはこの二つを一つのものとして教えているのです。私のいのちが赦しで覆われるように、祈ろうではありませんか。