「自分のたましいをゆだねる」1ペテロ4:17-19

 キリストの名のゆえに受ける試練、それとともにペテロは罪のゆえに苦しみを受けることがあってはならないと言います。そしてここに、「さばきが神の家から始まる時が来ている」と迫るのです。旧約時代に神がなさったさばきに着目してみましょう。

 エゼキエル9章、それはユダの末期、バビロンの支配下にあるユダです。そこでエゼキエルは幻を見せられます。書記がエルサレムを行き巡り、正しい者たちの額にしるしを付けます。一方、しるしのない者たちは滅ぼされる。そのようなさばきです。もう一つはマラキ3章、捕囚から帰還した民に対するさばきのことばです。並行するのがネヘミヤ記ですが、同胞に対する愛のなさ、神に対する不誠実に対する厳しいさばきです。あの捕囚の時を経ても、未だわかってはいないのです。

 「義人がかろうじて救われる」とはどのようなことでしょうか。ロトのストーリーは私たちにそれを伝えます。滅びのソドム。そこで彼は神の使いのことばにもかかわらず、ためらいを覚えます。また、とりわけ一緒に逃げた妻が振り返って塩の柱になったことは、大きな警告です。さばきのことばは同時に悔い改めへの強い迫りです。そこに畏れをもって立ち返ることを主は求めているのです。

 それでもなお善に生きる。そこに苦しみに会う。「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せ」する。そこに見るべきことは十字架のイエスの最後のことばです。「主よ。わが霊を委ねます。」受難のイエス様は苦しみを耐え忍び、ご自分を明け渡して委ねました。そこに神が賜ったのは復活の勝利です。真実にそれに報いてくださった。地上では悩みを受けながらも、約束されている天の栄光にすべてを委ねる者には確かな報いがあるのです。それこそ私たちの慰めです。