「葬りという悲しみ」マルコ15:42-47

 主イエスの葬り、ユダヤの一日は日没に始まります。翌日の安息日がすぐに迫り、亡くなったイエスの遺体を埋葬するには限られた時間しかありませんでした。アリマタヤのヨセフ、彼は有力な議員でした。ですからユダヤ人の手前、勇気ある行動でした。急いでピラトに申し出、亜麻布を買い、葬ったのです。
 イエスの葬り、それは「主イエスと私たちの歩みはまったく一つになる」ことです。痛みと悲しみは同じところに立たないと決してわからりません。「イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。…イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:17-18)」とあるように十字架と葬りをして、そこに立ってくださったのです。
 私たちにとって葬りは納得など到底できない死に別れを「納得させる場」です。イエス様は肉体をもってこの世に人として来てくださいました。弟子たちの目には「あなたこそ生きる神の御子キリストです」と告白されるように、人離れしていました。しかし、葬られたとき、はじめて、私たちと一つになった。私たちの罪と死の痛みをすべてともに負ってくださった。だから、どんな痛みも悩みも死も、イエス様は知っていたくださるのです。
 それだけではなく、この暗闇の死からよみがえりの希望の光を備えてくださいました。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(ヘブル9:27-28)」とあるように、どんなに闇が深くても、私たちには希望があるのです。その絶望は、空白の一日、闇の一日の後に、新しい創造、新しい世界を与えてくださった。その希望の光をしっかりと心に刻もうではありませんか。