「裁かれて明るみに出たのは?」マルコ14:53-65

「裁かれて明るみに出たのは?」マルコ14:53-65
 イエス様の逮捕劇、そこでスポットが当たっていたのは弟子たちの姿でした。この箇所では対極にある祭司長、律法学者、長老たちです。そこで、裁かれて明るみに出たのはむしろ彼らの姿、そして、神の救いのご計画です。
 ユダヤの最高法院、急遽召集は過越の祭の真夜中です。通常ではあり得ません。しかも形ばかりの裁判、結論は決まっていました。「死刑にするための口実」探しです。なぜ彼らがここまで拒むのか。それは彼らの偽善が暴かれたからです。神に熱心であると思ってはいても、突き詰めると自分の義を立てようとしていたのが彼らのです。
 偽証をしても彼らはイエスを死刑に定めることはできませんでした。処女マリヤから罪なき人の子として生まれ、最後まで罪なきことを確認したのは大祭司です。大祭司の一番の務めは犠牲の小羊を民になりかわってささげることです。大祭司は「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」と尋ねます。どんな偽証にも沈黙しておられたイエスはこれにだけ「わたしが、それです」と仰います。大祭司はこれを聞くと、神への冒涜だと死に値すると決めました。イエスが自らを贖いの小羊である救いに明け渡し、大祭司はそれを自らの手でする。裁きの場は贖いの場となりました。
 これまでイエスはご自分がキリストであることを隠してこられました。いやしをした後にしばしばそれを言いふらさないようにと口止めをします。ところが今それをハッキリ宣言しました。それは、この死刑、十字架こそが救いだからです。さらに、ここでイエスは救いの全貌、昇天と再臨にまで短いことばで宣言なさいます。それはこの十字架が神のご計画であったことを表したのです。
 人は罪ゆえにイエスを十字架に架けます。一方、罪なき神のひとり子イエスが、自らを贖いの代価として明け渡してくださった。それほどの愛をあなたにも注いでおられるのです。