「裏切りの心、その痛み」マルコ14:10-21

 私たちにとって、裏切りほどつらいことはありません。主イエスは「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(21)と言います。一方、直前にはナルドの香油を注いだ女の出来事。こちらは「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」(9)です。二つの出来事は対照的に、私たちにどちらを選ぶかを迫ります。
 ユダの裏切り、その理由を聖書は語っていません。弟子の金庫番であったユダですが、金のためではありません。もしかしたら、この状況に追い込んだら、イエス様が何かことを起こされるのではないかと謀ったのかもしれません。しかし、ユダの裏切りによって、祭りの間を避けようとした祭司長たちではなく、ユダに主導権が移り、過越の小羊として十字架に架かる神の計画が進むのです。
 過越の食事、それはイエス様がエルサレムの弟子に用意をさせた場所です。種なしパンが裂かれ、苦菜ともに食されます。苦菜を汁に浸す鉢は回されたことでしょう。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者」それは、弟子たち皆です。ユダだけではなく、他の弟子たちも逮捕とともに散り散りに逃げます。皆、裏切るのです。
 米国で黒人が警官に暴行され亡くなった事件が波紋を広げています。一方、私たちにも「内なる差別」とでも言うようなものが住み着いています。聖書は夫婦、男女、学歴や立場、人種や国籍…そのような分断はキリストにあって取り払われたと教えています。ところが心と行動とが一致しません。私たちは知らず知らずのうちに差別して傷つける言動をしているのです。こんな者のために、主イエスは十字架に架かってくださいました。そのイエス様が、あなたにもどちらの生き方を選ぶかと問いかけています。